思うこと

2019年10月21日 (月)

実家にて

独身の頃に住んでいた別棟を取り壊すというので、実家に帰っている。

1か月くらい前より、処分して欲しくないDVDや漫画を持ち出し、いらないゴミは清掃工場に搬出したりしていた。

そして今日から、いよいよ家屋の解体作業が始まるのだが、業者さんが来る前にこっそり...DVDレコーダーを運び出した。

テレビやデッキ類は全て処分することにしたのだが、一つだけ、初めてのハイビジョンテレビと一緒に買ったパナソニックのDVDレコーダーだけは持ち出すことにしたのだ。自分がフィギュアスケートを始めたばかりの演技の映像が入っていたからなのだが。それを失うのは、フィギュアを止めた今でも、惜しい気がした。

それで、実家のテレビにつないで中身を確認し、ディスクにダビングしてみた。

14年前の演技を見ると恥かしくなるのだが、確かに自分だなとも思った。この時の頑張りが、10年以上たって、「カルメン」とか「四季」、そして「君膵」につながっているのだと思う。暖房室で残して下さっているマスターズの動画を見直してみると、よくここまで動けているなと我ながら思うこともある。結果は芳しくなかったけど....。とにかく、頑張った! それだけは自分の14年間で言えると思う。

ただ、演技を見返して、また滑りたくなったかというと、それはない。フィギュアスケートの大変さ、難しさをひしひしと感じてしまった。同じ演技が今後もできるかと考えると、もう挑戦しようと思う気持ちにはなれない。今年の自分を振り返ってみても、右腕の骨折をおしてまでマスターズに出場し、滑りきった自分を、もう越えられないと感じるのだ。こんなに頑張ったのだから、もう十分じゃないか、そう思えて仕方ない。頑張りたくないわけではないが、頑張る自信が湧いてこないのだ。

演技を終えた直後は、骨折を治して来年も同じプログラムで出直しをしたいと思っていたのだが、三か月、四か月と治療が長引くにつれて、氷が怖くなってしまった。もう、過去の自分に区切りをつけてもいいんじゃないかと思うようになった。生涯スポーツとしても、フィギュアスケートは本当に素晴らしい種目だし、頑張られている沢山の方々と出会えたことに感謝している。でも、それはフィギュアを続ける理由にはならない。

自分の人生を眺めたとしたら、今回のような怪我を二度と繰り返すわけにはいかないし、過去の演技を見返しているうちに、むしろ14年間大きな怪我をしてこなかった方が不思議なくらいの危うさを見つけてしまった。一言でいえば、自分の演技はアンバランスだし、無理があると思う。それが、ジャッジから評価されない理由なのかもしれない。一番、力が抜けて自然なのが、今年の「君膵」だと思うのだが、皮肉にもその練習の過程で怪我をしてしまった。「あんなに打ち込んできたのに...」という思いは今でもある。でも、怪我の影響もあり、本番での演技は全然だった。本当に、素敵なプログラムを作ってもらったのに....どうして、あそこで転んでしまったのか。言いようのない悔しさは、今でも残っている。でも、来年に向けて氷の上に立つ気力は、どうしても出てこない。

結局、私にとってフィギュアスケートは、そのような存在だったのだと思う。

5月の大会前、名古屋のリンクを往復する車中で、繰り返し聞いていたのが「AXIA~ダイスキでダイキライ」というアニソンだった。歌詞の中に「片道だけの微熱で翔ける空」という表現がある。フィギュアスケートに対する自分の気持ちを言い当てている気がしていた。熱に浮かされたように練習を繰り返しても片想いのようなもので、結果としては報われない。それでも、滑り続けてきたし、いつの間にか14年が過ぎてしまった。片道だけの空を戻っていくことはできないのだから、そろそろ、次の空を探してもいいんじゃないかと思った。少なくとも、私はフィギュアスケートが大好きだったのだが、フィギュアから自分が愛されていたという感じはなかった。うらみつらみを記すつもりはないが、やっぱり片想いであり、報われない努力だったのかもしれない。

でも、この経験は、きっと自分の宝物になっていると思う。

たとえ報われなくても、14年も愛せたのは、幸せなことに違いないのだから。

だから、エレクトーンは、もっと幸せな気持ちで長続きしてほしいと思っている。

2009年6月 2日 (火)

八木沼純子さんの婚約

昨日、ニフティのサイトで記事を目にした(記事はこちら)。

あんなに素敵な人なのに。。。というか、素敵すぎて結婚できないのかと思っていたが、伴侶は決まっていたらしい。ちょっと残念...でもないか(笑)。やはり、いつまでも輝く女性には支える男性が居るものだなと、改めて感じた。

活況の日本フィギュア界だが、八木沼さんがいなかったら...?と思うこともある。

何より、フィギュアがまだマイナーな時代からプリンス・アイスワールドを引っ張ってきた人だ。伊藤みどりさんという大看板が不在となりながらも、プリンスが続いていたのは、この人の功績が大きいのではと想像する。

現役時代の伊藤みどりさんは孤高の存在のように語られるが、「ジュンジュンや有香ちゃんは、こんなことやっているらしいよ」と山田コーチにはっぱをかけられながら練習していたことが、本(確か”タイムパッセージ”だったと記憶している、時間がなくて確認できません、すみません)に書いてあった。伊藤みどりさんの成長の軌跡には、きっと八木沼さんの姿が映っていたのだろう。

もう一つ、コアなファンの方々にはあまり評価されていないが、タレント性のある解説者としての存在は、荒川静香さんがメジャーになるまでは非常に大切な役割だったと、私は考えている。今のフィギュア人気はテレビ主導であることは、多くの人たちが認めていると思う。それが良いか悪いかは別だが、真央選手や安藤選手達が国民的な人気を博す過程では、八木沼さんの解説ぶりがお茶の間に馴染みやすかったというのは、とても大切なことであったと思うのだ。

乱暴な例えで言えば、塩原アナの(かなり)しょっぱい実況に、八木沼さんの甘みのあるややクールな解説は、塩スィーツのような感じでマッチしやすかったと思う。スィーツというには、塩気が効きすぎているが...。でも、2008年世界選手権、サラマイヤーのフリー演技での二人の中継は見事だったと思う。

結婚は秋ごろということだが、八木沼から改姓されるのだろうか...。

でも、いつになってもジュンジュンは変わらないのかもしれない。

ご多幸とご活躍を祈ります。

2009年5月26日 (火)

For the Next

おはようございます。

今年のマスターズチャレンジカップが終了して、もう1週間が経ちました。

この週末は職場の大学で、全国規模の研究会があったため、私もお手伝いに参加して休みなしで仕事をしていました(ボランティアですが)。そのため、マスターズ以降はまだ、氷に乗ることができていません。日々は、試合のために先送りしていた仕事に追われ、忙しくなっています。今からも、シャワーを浴びたら職場に向かいます。

でも、全ては次のチャンスのためです。

それが発表会なのか、試合なのかはわかりませんが、その時のために練習を続けようと思います。靴は磨かれ、ブレードには油がひかれ、リンクに降りるスタンバイはしてあります。

正直、限界は感じますし、仕事との兼ね合いを考えると今季以上に集中して練習することは、もうできないと思います。事情が許してくれません。なので、今年のマスターズを最高のパフォーマンスの機会として臨みました。「それでも、あの程度か...」というので、気持ちが落ち込んでいます。頸の調子も良くないですし...。

でも、なんか違うな...とも感じています。限界だから、これ以上練習できないから、だから辞めるというのは、大人のスポーツじゃない気がするのです。プロなら立派な引き際ですが、趣味でやっている大人の場合は、「ピークを越えても続けるのは嫌!」というのはすごくもったいない気がします。

おそらく、来年のパフォーマンスは期待できないだろうと、自分では感じています。もう、頑張れませんというか、別のことで頑張らねばならないのです。それでも、自分にしかできない何かが、フィギュアスケートでもあるようにも感じています。「とにかく、頑張れ!」と、もう一人の自分が言っております。リアルでも、ネットでも応援して下さる皆さんも、私が神演技をしてスタオベを受けるなんて期待していないと思います。むしろ、転んでもすぐに起き上がり、曲に遅れまいと演技を続ける、そういう姿を評価して下さるのだと思います。

音楽は、待ってくれないのです。

先生からも、練習中の私のそういう部分は、子供達も見習ってほしいと、言ってくださったことがありました。たとえ満足できなくても、たとえ格好悪くても、それでも頑張る、できる範囲でできる努力を続ける、そういう大人の姿を見て、子供は育つのだと思います。

だから、もうちょっと頑張り続けようと思います。トレーニングの密度は減っても、リンクに降りる時間が少なくなっても、できる時間で頑張る、できるだけ工夫して練習を楽しんでいきたいと思います。

全ては、次のチャンスのため...もう、来年への遠征は始まっています。

皆さんの声に、心から感謝しております。ありがとうございます。

2009年5月 9日 (土)

されど真央は偉大である...

アメリカでフィギュア人気が低迷しており、それがISUの財政逼迫の要因となっているとの意見が、「親父の目」であったが、さもありなんという気がする。というか...そもそも、米国でよくフィギュアスケートなんぞが人気あったなぁ...と、そちらの方が不思議である。フィギュアの大会というと、寒いなか、何も食べずにお行儀良く観ないといけない。ポップコーンやフライドポテトをほおばりながら、ビール片手に、ヤンヤと騒ぐ乗りとはかけ離れた文化である。よく、米国人がそんな雰囲気でスポーツが堪能できると...不思議でしょうがなかった。

米国には、何よりも、NFLがある。あんなに素晴らしいプロリーグがあり、全米はおろか世界中が一気にヒートアップするのに、なぜフィギュアなんかに...?と思わずにおれない。確かに私もフィギュアスケートは大好きだし、試合観戦にも出かける。でも、正直、いつまでこのスポーツに肩入れするかは、わからない。最近は、中森明菜のディナーショーに目標が移っているし、世の中には楽しいこと、面白いことが一杯ある。別に、フィギュアだけが楽しみではない.....。

といいながらも...多分、ずるずるとフィギュアファンを続けるのだろうけど...。やはり、このスポーツには、このスポーツにしかない面白さがある。

たとえて言えば、スケールや知名度ではF1グランプリに歯が立たないとしても、競輪には競輪なりの醍醐味があるということである。私はギャンブルは一切やらないので、実際には競輪競技を生で観たことはないのだが、テレビでは結構楽しんでいる。あのかけひきと最後の追い込みには、ワクワクさせられる。パワーとスピードで言えば、F1マシンの比ではないが、人力で出せる限界の世界には、やはり素晴らしいものがあると思う。

同じように、NFLのような究極にまで行き着いた感はないにしても、フィギュアスケートにはフィギュアにしかない、極限の世界がある。その一つが、ジャンプの着氷である。最近の議論では、回転が足りてるかとか、エッジの向きがどうかとか、(申し訳ないが)重箱の隅をつつくような話題が多く、そのための検証ビデオもネットに出回っている。

でも、考えてほしい。スローモーションでじっくり観ないと判別がつかないような、本当に微妙な動作を、音楽に合わせて、何度も繰り返しているのが、選手達の演技なのである。

回転が足りているか否かは、もちろん大事である。何度も記すが、その判定がルールに盛り込まれるのは、意味があると思う。でも、その判定は専門家であるジャッジの仕事である。ファンがジャッジをジャッジするのも、ファンなりの楽しみかもしれないが、そのためにフィギュアスケートの醍醐味を見失ってはいないだろうか?少なくとも私は、スローで観れば観るほど、選手達の技術のすごさに言葉を失ってしまう。着氷のほんの一瞬、トゥが氷にかすったかと思う瞬間に、エッジが氷をとらえ、フリーレッグが後ろへと身体を導いていくのである。回転が足りてようと、足りてまいと、「よくこんなことができるものだ...」と思わずにはおれない...私は...。

真央選手のエッジジャンプについては、トゥジャンプと同じように踏み切りに難があることがある。いわゆるプレローテーションの問題だが、その様子をビデオを見ても、限界までエッジを倒して小さな弧を描き、そこから揚力を得て身体を全身で投げ出していくのがわかるかもしれない。特にトリプルループでは、2回転しながら身体を上方へと捻っていき、降りながら3回転目に至るためのゆとりを、自ら生み出しているのがわかる。適切なたとえではないかもしれないが、まるで、ヘリコプターのように自らを飛ばしているように見える。彼女のループジャンプは、アートだと思う。

それと、セカンドジャンプの認定の話とは、少し区別した方が良いかもしれない。点数に直結した議論ばかりでは、選手のポテンシャルを正等に評価できないのではないかと、私は思うのだ。点数が出なければ選手には能力がないというような意見ばかりでは、フィギュアスケートは面白くないのではないだろうか...?

もちろん、選手達は勝利を目指しており、より高い評価、点数が出るように努力している。クラブの子達の話を聞いていても、レベル認定とか、エレメンツの難易度の判定とか、そういうことを真剣に考えて練習しているようだ。もちろん、トップ選手たちも、現行のルールを意識して練習に励んでいるのだろう。でも、点数に直結する部分ばかりを観ていたら、やはりフィギュアは面白くない。繰り返すが、私はそう思う。

むしろ、点数には結びつかない部分で、どれだけ汗をかいているか、それこそがスポーツかもしれない。結果も大切だが、結果を出すためには、より広い裾野が必用だということなのだが...。例えば、真央選手のセカンドジャンプでのループへのこだわり。次のシーズンでどうなるかはわからないが、あのタイミングでトリプルループに入れるのは、本当にすごいと思う。もちろん、ルール上は認められず、ダブルへダウングレードされ、GOEもマイナスという結果であった。点数上は無残である。

でも、その点数分しか、彼女の能力はないのだろうか?

だとしたら、猫の目のように変わるルールの度に、選手の能力評価は変えねばならないだろう。選手自身は、年々、心技体いずれも充実させているのかもしれないのに...。今シーズンは、ファンからも非難ごうごうだった、回転不足への二重減点があり、ダウングレードされたジャンプの点数はかなり低くなったようだ。でも、次のシーズンは、GOEは必ずしもマイナスとされないようだ。見た目の出来栄えが点数に反映されるかもしれない。そうすると、同じようなジャンプでも、今シーズンはかなり低く、来シーズンはわりと高く点数がつくということがあるかもしれない。ルールを改正すれば、そういう現象も妥当性を持つ。でも、点数が変わるたびに、選手への評価も変えないといけないのか...?

私はおかしいと思う。車でも、株でも、市場価格は常に変動する。それは、大切な目安である。でも、私にとって掛け替えのない自分の車は、市場価格とは違う価値を私に提供してくれる。株式市場に上場されている企業も、私にとってのその企業の評価は、株価とは異なるものである。株価にも根拠はあるだろうから、尊重はした方が良いとも思うが、自分とその企業との関わりは、市場の論理とは別であることが多いのだ。

同様に、選手を応援する以上、競技会での成績は尊重せねばならないと思う。でも、その選手を好きになる理由は、成績だけとは限らない。だから、たとえ認定されようと、されまいと、私は、真央選手のセカンドのトリプルループは、すごいと思う。あんなジャンプ、私じゃ跳べない...(汗)。

私は下戸なので、ワインなんて飲めないのだが、次の言葉は知っている。

今は第1級だが、過去は第2級だった、されどムートンは不変である。

19世紀以来、メドックの格付けで2級とされていたシャトー・ムートンが1級へと昇格された時の言葉らしいが、私は選手達にも同じ気持ちを持っている。ダウングレードされようと、点数が伸びなかろうと、それはそれ。私が良いと感じた演技はそれだけで、私にとっては価値があるし、たとえ高い点数が出ようとも、気持ちを感じない演技は、私は好きになれない。評価は年毎に変わるが、選手は選手である。

はっきり言うが、世界選手権のキム・ヨナのフリースケーティングは、私は嫌いだ。あんなのシェヘラザードではない。点数については、疑問を感じないし、ネットで問題視されているスピンも、私は高い技術を感じる。彼女は、立派なフィギュアスケートの女王だと思う。だから、彼女には、心から「おめでとう」と言いたい。

でも、音楽との調和については、キム・ヨナの演技には大きな難があると、私は感じる。自分を表現したいあまりに、音楽を足蹴にする演技は、私は好きになれない。

ムートンの言葉を借りれば...

一昨年・昨年と銅であったが、今年は金である。でも、キム・ヨナはキム・ヨナだ。

これは、真央選手にも、安藤選手にも言えると思う。全ての選手達が、堂々と、自分の信じる技術で、自分達の演技をすれば良いと、私は思う。金メダルを獲りたい人は、それを目指した演技をすれば良いだろうし、勝った選手には、心から「おめでとう」と言いたい。

でも、勝とうが負けようが、選手は選手である。その能力が勝ち負けで増減するわけではない。勝敗に関係なく、選手達の、「すごい!」と思える瞬間を、今後も観続けられたらと願っている。

以上のこと、世界選手権で台落ちしてしまったことへの負け惜しみと感じる方もいらっしゃるかもしれない。それは、あると思う。もし、真央選手が世界選手権2連覇をしたら、「やっぱり真央は凄い!!」としか、自分は言わないと思う。でも、確信を持って言えるのは、真央が勝ったからと言って、ヨナを落とすようなことは、自分は言わないということだ。嫌いなものは嫌いと言いたいが、キム・ヨナが偉大なスケーターであり、稀代のトゥ・ジャンパーであることは、私も信じている。

2009年4月25日 (土)

ニフティの一文は、フィギュアに益なすものか?

親しい人から、3月の世界選手権の女子シングルでの採点やその後のネットの動きについて感想を求められていたが、書けずにいた。「何かエントリーせねば」との焦燥感やあったし、一生懸命、想を練っていたのだが、やはり諦めた。

採点については、不満うんぬんというよりも、自分の見識ではわからない部分が多いし、「ジャッジがそう採点するならそうじゃないの?」くらいの感想しか持てなかったのだ。何度も演技を見直し、確かにPCSも高めとの印象を抱いたが、その大会がそういう傾向なら、別にそれで良いと思う程度であった。なので、このブログでは、「何か書かないと」という気持ちはあったのだが、特に書けずにいた。

ネットの主張で、私が納得したのは、「同一大会なのに男女でPCSの採点傾向が違うのは、おかしいのではないか?」との意見であった。これは、このブログでもコメントを下さる、まりりんさんのブログで見かけた意見だが、本当にそう思う。過去の成績、例えばトリノオリンピックでのプルシェンコのPCSに捕らわれる必用は全然ないと思うのだが、同じ大会で女子と男子で傾向が違うとするならば、それは変だと私も感じる。

もっとも、そのご意見に同意するのも、本当に男女差が妥当性を逸脱するほど顕著であった場合であり、それについて私は確認していない。なので、”仮に....だとしたら”の範囲での感想でしかない。それと、仮にそういう”おかしさ”があったとしても、それは大会上の不備として指摘すべきであり、それ以外の憶測は無用とも思える。

また、事実関係を意図的に隠したり、歪曲した表現で、問題の所在だけ示唆されるのなら、やはり憶測は広がり、それによって困惑した者同士の意見が飛び交う事態になるのではないか。

記憶に新しいのは、ロス・ワールド前の韓国サイドからの、6分間練習での妨害に関する報道であり、それを受けて日本スケート連盟まで韓国側に調査の依頼がされ、結果として妨害の事実は認められないと公式に発表されたと記憶している。事実として認められなかった報道に、日本側が踊らされた顛末だと、私は受け止めている。

最近では、タレントの北野誠氏の処遇についてが印象的である。なぜ、突如、出演番組から降板したのか、ネットではひっきりなしに憶測が飛んでいた。本人サイドからの事実公表がないから「わかりません」では済まされず、「。。。ではないか?」という不明確な憶測が幅をきかせるようになるのだろう。

そして....ロスも終わり、国別対抗も成功を修めたにもかかわらず...この記事については、看過し難い感想を抱いている。

史上初めての国別対抗戦は、大成功だった。もちろん一番がんばったのは、世界選手権直後という強行スケジュールを押して、いい試合を見せてくれた選手たち。でも、この試合を盛り上げ、選手たちの士気を支えたのは、間違いなく日本の観客たちだろう。
 世界選手権終了後、一部ファンがお気に入りの選手を愛するあまりに暴走し、その言動にたくさんの人が傷つくことになった。選手たちを支えることを仕事とする人々が、業務に支障をきたすことになるなど、あってはならないことだ。国別対抗エキシビションへの参加を断念せざるを得ない海外選手が出てくるなど、あまりに悲しいことだ。いったいこの国のスケートファンは、どうなってしまったのか……そんな気持ちにもなった。

http://iceblue.cocolog-nifty.com/figure/2009/04/2009-0721.htmlより)

正直...この国のスケートファンを、これ以上、憶測による困惑に陥れないでほしいと、切に願う。この記事に対して、私は次の点に憂慮する。

1.事実関係を明示せず、何があったかもボカしていること

   問題の記述では、”一部ファンの暴走”とあり、その動機が”お気に入りの選手を愛するあまり”とある。そして、その結果についての表現が、あざとい! ライターが明記しているのは、”その言動にたくさんの人が傷つくことになった。”だけである。続く、

選手たちを支えることを仕事とする人々が、業務に支障をきたすことになるなど、あってはならないことだ。国別対抗エキシビションへの参加を断念せざるを得ない海外選手が出てくるなど、あまりに悲しいことだ。

は、”そういうことは、あってはならない”という個人の意見表明であり、そういう事実があったとの記述はされていない。だから、この文章は、「一部ファンの暴走で傷つくことが続けば、今後憂慮すべき事態になる可能性がある。それは、あってはならない。」という本旨と理解できる。でも、文章を一気に読んでしまえば、「一部ファンの暴走で選手支援体制の業務が滞り、海外選手の招待が断念されるという、あってはならないことが起こった(詳細は言えないのだが...)」との印象を抱いてしまう。

本当に、そういう憂慮すべき事態が存在したのか、それは、「わからない」。私の記憶では、公の発表ではそのようなことは出されていないと思う。いわゆる裏事情をライターが私情を交えて漏らしたのか、それとも、私の前者の理解のように、今後の事態を憂慮しての意見に過ぎないのか、全く、「わからない」。

でも、「わからない」ものを、そのままでは済まさないことは、ネットの常である。既に、被害者と犯人探しの憶測が出ている。被害者が居るともライターは書いていないのに、文章の流れだけで特定選手が推定され、その選手とライバル関係にある選手のファンが批判されるとしたら、たまったものではない。こういう、ネットに波紋を拡げる記事は、私は快く思わない。それに、自身のファンがいわれのない誹謗にさらされるとしたら、そのライバル選手にとっても迷惑ではないだろうか?

2.”一部のファンの暴走”を問題視しても、その暴走への抑止にはならないかもしれない

ライターは、パンドラの箱を開けてしまったと、私は思う。いわゆる、”○○ヲタ”と呼ばれる、一部の熱狂的なファンの存在は私も知っている。憂慮すべきは、その存在ではなく、その行動に実効性を自覚することなのだ。

私は、ネットでのファンの動向よりも、実際に試合会場で行われる事柄の方に危機感を覚える。それは、選手達のパフォーマンスに直接影響するかもしれない。ネットで、○○ヲタとのレッテルを貼られ、気持ちの落としどころがなくなった熱狂的ファンが、その思いをリアルな世界に向け始めたら...どんなことになるのだろうか?例えば、自分達のアピールを記したバナーを貼ったり、ブーイングの文化を持ち込んだり...。 

ニフティの記事は、熱狂的な行動を諌めるというよりも、「海外の選手の招待を断念」させるほどに実効性が増していることを認めたものと、理解される可能性がある。熱狂的ファンをフーリガンと呼び始めた時点から、彼らはフーリガンの振る舞いを自覚し始めると、私は考えている。

だから、注視はすれども黙殺することこそ、賢明ではなかったのか!

でも、ニフティは、いわばフィギュアフーリガンの存在を認めてしまった。微妙な言い回しではあるが、彼らが、フィギュアの大会運営にまで影響を及ぼせる力を持っていることを、書いてしまったのだ(私はそれを事実に基づいたものとは思わないが...)。

おそらく、来シーズンの五輪選考は荒れるだろう。ファンの間で、荒れ模様になるかもしれない。あと、セキュリティーの強化とファンのマナー向上の方策は練った方が良いかもしれない。もちろん、何事もないことを願っているが...。

たとえ嵐が来たとしても、どの蝶の羽ばたきでそれが起きたのか、特定はできない。世の中には、「わからない」ことは多いのだ。だからこそ...プロのライターなら、憶測を呼ぶような書き方は慎んだ方が良いのではないかと思う。もっとも、事実であると明記して書いたにもかかわらず、後で違うとわかった時のダメージの大きさについては、週間新潮のケースからも感じられるが...だったら...ニフティのあの文章は、フィギュアスケートの世界、フィギュアファンの世界、いずれにとっても、益をもたらすものなのだろうか? 書かなくても良い、蛇足ではないのか? と思ってしまう。

アフリカンマインド

実は...ケンプファーというモビルスーツが好きです。

機動戦士ガンダムの”ポケットの中の戦争”というOVAに出てくるのですが、1年戦争で中立を保つ(実は連邦寄り)サイド6の工場で極秘に組み立てられ、突如としてコロニー内の街並みに現れ、陽動の混乱を起こす立ち回りをします。陽動作戦の目的は、アレックスという新型ガンダム奪取(もしくは破壊)工作から連邦の目を逸らすことなのですが、パイロットのミーシャが駆るケンプファーが、滅茶苦茶かっこう良いのです。

市街地を、地面スレスレに滑空する姿を見て、「こんな風に滑れたらいいなぁ」と、いつも思ってます。

結局、起動したアレックスに、ミーシャごと蜂の巣にされる最期なのですが、そのやられ方も含めて、ケンプファーが大好きです。で、地元のリンクがシーズンを終え、それでも豊橋のリンクで練習を続けていますが、曲かけ練習が全然できていません。営業中にリンク全面で滑れる時もあるのですが、お客さんや練習生が結構居て、とても曲に没頭できる状況ではないです。なので、現在は、プログラムの部分ごとに練習を重ね、各パートの精度をあげるように努力しています。幸い、5月16日のマスターズ当日深夜(午前3時)に、昨年同様、個人貸切りを確保できました。ここで、曲かけを繰り返して一気に組み上げる算段です。

組み立て工場を内側から破って巨体を露わにしたケンプファーのように、首尾よく仕上がるかは不安ですが、今できることで最善を尽くすしかないかなと思っております。幸い、3月までは地元で曲かけを繰り返したので、その感覚を忘れなければ、なんとかなると思います。

プログラムの部分練習と並行して、ジャンプの練習もしています。シングルアクセルも、ダブルジャンプもまだ降りられませんが、少しずつ前進している感触は持っています。感じるのは、シングルアクセル以上では、やみくもに跳んで回ろうとしてもダメかな、ということです。空中で、自分がイメージした動作ができるようになるか、いうなれば、制空権を得ることができるか、それが勝負かと思うのです。まだ私は、ジャンプに恐怖心があるので、軸をとって回りきることができません。それでも、空中で”何か”を掴みつつあるようにも思えるのです。スピンでもそうなのですが、自分の感覚として軸を感じることができると、技術はグンと飛躍するとも思います。ですので、空中で軸を掴めるか、それが、空中での動作の自由度を左右するように考えています。

これは、理屈でなく感覚であり、繰り返し練習を重ねないと会得できないものかもしれません。とにかく、「あと少し....」と思いながら、もう何ヶ月も足踏みしています。ですので、5月の本番に間に合うとも思えないのですが、とにかく練習しています。

地上では、ルッツの踏み切りでもダブルは降りられます。最近確信を持って言えるのは、氷の上を滑りながら、トゥでひっかけて跳ぶという動作は、地上でジャンプするよりもはるかに難しいということです。水中で思うように動くのも大変ですが、氷上でも人は溺れるものなんだと...感じております。もちろん、息ができないとかそういうことではなく、イメージ通りに動作することが、地上に比べてはるかに大変な世界なんだなぁ...と、改めて実感しているのです。だからこそ、フィギュアスケートは面白いのですが。

ただ、限られた時間で、限られた場所でしか練習できない今は辛いものがありますし、5月に本番というマスターズは、季節営業のリンクで練習する者としては厳しい大会でもあります。4月という時期は、社会人にとってはどうしても仕事中心で動かざるを得ませんし、本当のことを言えば、「スケートどころじゃない」と言う気持ちもあります。オフシーズンの中でも一番氷から気持ちが遠ざかる、モチベーション的には”乾季”の状況なのです。

それでも、厳しい季節を乗り越えようと、水を求めて旅をするサバンナの動物達のことを思えば、自動車で1時間もすれば氷にたどりつける自分はまだ、恵まれているはずです。週末には、思う存分滑れますし...。あと、こういう時期を想定して、陸トレや水中トレを導入しているわけですし。だから、乾いた時期を嫌うのではなく、それでも氷に乗れることを感謝し、できることを精一杯練習すれば良いのかな...? とも考えています。

”アフリカンシンフォニー”では、氷を求めて旅をする、自分達の気持ちもこめて演技できればと願っています。でも、そういう乾いた時期を経験するからこそ、シーズンを心待ちにするわけですから、それも感謝すべきかなとも感じます。

恵みの雨の後、一気に緑に色づく草花のように、あるいは、間隙を縫って強襲を試みたケンプファーのように。。。2分30秒足らずという短時間ですが、リンク全面を一人で滑らせて下さるこの一瞬に、懸けてみたいと思います。

2009年2月 1日 (日)

やはり、老化現象かな...?

昨年11月の終わりに、軽いオーバートレーニングの状態になってから、身体の変調を感じるようになった。脱力感はだいぶ回復しているのだが、調子は良くない。

いちばん変化を感じるのは、筋肉痛を覚えるようになったことだ。それまでが変だったのかもしれないが、私は、どんなトレーニングをしても筋肉痛を覚えない性質だった。一日中滑っていても、筋トレをやっても、途中での水分補給と休憩に腐心しているのもあるとは思うが、筋肉痛にはならずに済んでいた。それで、積極的にトレーニングができていたのだが。

ところが、最近は、トレーニング後に背中やわき腹、ふくらはぎに軽い痛みを覚えるようになってきた。あと、股関節も気になる。まだ、翌日まで持ち越すというほどではないが、以前とは違う体になったなと思っている。あと、疲労感も著しい。トレーニング中も、疲れを感じやすくなったし、トレーニング後に四肢が重いことがよくある。これも、最近の傾向だ。

今日も、6日ぶりに1時間だけリンクに降りられたが、スケーティングの練習中に体がしんどくて仕方なかった。ルーチンのフォアのスケーティングはこなせたが、今ひとつピリっとしない練習になった。身体のコンディションが悪いと、集中力にも影響するのかもしれない。

結局のところ、無理がきかない体になったということではないだろうか。これに、気力とか意欲も減退しはじめたら、更にブレーキがかかるのだろう。

基本的には、それでも良いと思う。私はプロではないし、アスリートでもないので、優先すべきことは他にある。いつも記すことだが、「できる範囲で、できるだけ」頑張るしかない。フィギュアスケートで見事な成果を挙げたとしても、ほめてくれる人はいない。いや、先生やクラブの人たちからは認めていただけるかもしれないが、あくまでも内輪の世界なのだ。子供達のように、これから外の競技の世界へと出て行くわけではない。私とて、選手登録はしているので、競技会に出る目標はあるが、それはあくまでもオマケみたいなもので、大人のフィギュアの努力は、自身の満足が一番の目的だと考えている。

「ジャンプ、スピンができたからといって、なんになるの?」と、いつも自問自答している。選手達のように、トリプルが跳べるからといって、拍手がもらえる世界でもない。そこのところだけは、私は間違えたくない。

もちろん、技術習得には、今後も頑張る。ジャンプで言えば、シングルルッツの精度を上げることと、シングルアクセル、ダブルサルコウを降りられるようになること、これは課題である。他にも、スピンやステップでも、練習しないといけないことは沢山ある。ゆっくりだとしても、ひとつひとつクリアしていきたい。でも、今までよりも、もっとゆっくりなペースになるかもしれないし、今までできていたことができなくなる可能性も、今後はあるかもしれない。私は、体重コントロールの問題も抱えているし...。このまま太り続けたら、やはりマズいだろう。

無理のきかない体になったというのは、おそらくは老化現象だと思う。40歳を過ぎれば、そういう時期がくるのだろう。でも、とても幸せなこととも思う。限られた体力や精神力のなかで、スケートにはどの程度配分するかを考えるゆとりを与えられたのだから。がむしゃらに練習し、全てを犠牲にして技術向上を目指す世界とは、違う世界で生きて良いというメッセージと、私は受け留めている。とにかく、「できる範囲で、できるだけ」頑張る。それ以外に頑張らないといけない事柄、たとえば、仕事とか、家のこととか...そこでも頑張れるだけの余力は残さないと...無理はいけないよ、ということなのだろう。

それでも、技術が向上するのなら、嬉しいが、ダメなら、それなりに受け留めていくだけだろう。枯れていくのも、人生かな...と。

専門が、高齢者への看護なので、この年齢で老化と向き合う経験ができるのも、仕事のうえではラッキーである。老化=退化ではないし、衰えながらも磨けるものはあるはずなので、そこに希望を見出していきたい。もちろん、ダブルは跳べるようになりたいが...しつこいか。

2009年1月11日 (日)

20世紀少年を読んでしまった

浦沢直樹のマンガは、出世作のYAWARA!が大好きで、マスターキートンも全巻ではないが結構読んでいた。なので、20世紀少年もいつかは読みたいと思っていた。

一昨日、たまたま書店に行く用事があり(最近はamazonばかり利用しているので、本屋に行く機会がめっきり減った)、そこで見かけたので大人買いして、続編の21世紀少年上・下も含めて全部読んでしまった。

感想についてはクドクド記しても仕方ないが、とても面白かった。最後の真相については、10巻まで読んだところで、wikipediaで調べてしまったので、後は粗筋を押さえながらの読破となった。なので、「ああ、こんなもんか」という感じで結末を迎えた。でも、不消化の部分も多く、読み終わった後でアレコレ考えられてとても楽しいマンガだと思う。

このエントリーで言いたいのは、やはりネットの力のことだ。このマンガの真相(=深層)については、私個人の読解力ではちょっと難しいところがあった。しかし、ネットでキーワードを検索すると、痒いところに手が届くファンの解説をすぐに見つけることができる。その解説の全てにうなづくわけではないが、「ああ...なるほど」と思い、自分なりの理解を得る手がかりになった。

大切なのは、コアなファンやヘヴィーな読者の解釈に助けてもらいながらも、自分なりの理解を得ることだと思う。これができれば、ネットは思考形成の大きな武器になるのではないか。逆に、ネットで形成された思考を、そのまま自身に移植するだけであれば、それは自分のためにならないようにも思う。「ネットで権威を認められているブログ主の見解だから、これが正当」というだけでは、物事を本当に理解したとは言えないと私は思うのだ。うなづけるところは素直に認めるが、違うと感じるところは自分なりの解釈も考えてみる、そうでなければネットを手がかりに物事を考える甲斐はないのではないだろうか?

だから、理想を言えば、自分が胸に抱いた異論・反論をネットでぶつけてみて、その刺激で議論が活性化できるようなコミュニケーションができれば、更に理解が深まっていくと思う。逆に言えば、ネットコミュニティーの中で受け容れられるような議論の仕方ができるかが、ネットでの自分のあり方を高めるカギになるのかもしれない。正直、ネット上で異論・反論を上手に受け容れながら議論を膨らませていけるような場に、私は出会ったことがない。どちらかというと、エントリーへの賛同の意見でコメント覧が埋まっているブログを多く見る。

でも、ブログ主の意見が必ず正しいとも言えないし、異なる見方から更なる知見を得ることも多いのではないだろうか?なので、この”アイスステージ”は、私の出すエントリーに対して、「あなたはそう言うけど、こういう考えもあるんじゃないですか?」というコメントが頂けたなら、それこそ”ブログの力”が増した証になるのではないかと思いながら続けている。もちろん、反対意見ばかりだと凹むというのはあるし、賛同の意見を頂けた時にはホットするというのも正直なところだが...。

ネットで生きるのも、ネットを生かすのも、参加者次第だと思う。少なくとも、このブログでは、私の意見はひとつの投げかけでしかないので、それを読んで下さった方々が、ご自身の考えをまとめ、ひろげるために使って下さるのなら、それこそ本望と思っている。ネットでのコミュニケーションを通して、私は大切な友達を見つけることができたし、時には失うこともあった。失敗は数多くあったが、昔から、今でも、おそらくは今後も思うことは、私は単なる一個人としてネットに参加しているに過ぎないということだ。例えば、フィギュアスケートのファンとして、あるいは自分もフィギュアを習うものとして、そして一人の中年のオジサンとして、そういう立場からしか、語ることはできない。だから、私のことを嫌う人がいてもそれは当然かな...と感じる。オジさん臭い話しかできないのだから...。

これはマンガの世界で言えば、私は、20世紀少年のもう一人の主人公である”ともだち”のようにはなりたくないということだ。世界全ての人々がうなづき、権威を認め、愛する、そのような普遍的存在とは天地の差があるし、それを理想とは思わないということだ。私は、自分の意見は出すが、それはあくまでも片言のことばでしかないことを弁えていたい。片言のことばなので、反対する人も沢山いるだろうし、賛成して下さる方もいてくれるといいな...とも思う。そして、多くの人々にはスルーされるだろう。それで良いのだと考えている。

「読んで楽しんでもらえるブログに」とは考えているが、断片的な意見の羅列にすぎないのがブログだと思う。「絶対に」とか「どう考えてもこうである」と(例え言い切っても、本当のところは...)言い切れないのがブログではないだろうか?そのポジションは、今後も守っていきたい。

もう一度マンガの話に戻ると、大阪での万博には、私も連れられて行った。ただ、まだ小さかったので、行ったということしか覚えていない。月の石も見たらしいが...感動するには幼すぎた。でも、あの'70年代、躍動する時代を共有できたという意識は、私自身にもある。テレビにせよ、マンガにせよ、アニメにせよ、PCにせよ、確かに大阪万博を共有した世代が先駆けとなっているのかもしれない。だから、体型や容貌はともかくとして、生き方のうえでは、もう少し格好の良い大人にならないといけないな...とも感じている。

子供時代の私の目から見た大人は、正直、あまり格好良くなかった。お洒落とかそういう意味ではなく、生き生きとしてなかったのだ。楽しそうではないというか...。

でも、人生には楽しいことや面白いことも一杯あることを、子供の頃から教えてもらえてきた私達だから、「生きていればいいことも沢山あるよ」というメッセージを、後の世代の方々に伝えていける大人になれたらなぁ....と、思った。 同じように、このブログでは、フィギュアスケートの素晴らしさや楽しさを語りたいと思う。楽観論に傾斜するつもりではないが、希望が語られなければ良くないと思う。

2009年1月 7日 (水)

神様のひとこと

一昨日だが、プールでのトレーニング後にジムでストレッチをやっていたら、島田紳介が司会するテレビ番組をやっていた。マシンの音がフロア中に響くところなので、テレビの音はきこえず、ストレッチをしながらテロップだけを読んでいた。

どうも、ポップ吉村の思い出話をしていたらしい。

チーム・シンスケで鈴鹿の8時間耐久オートバイレースに参戦を決めた時、オートバイのチューニングではカリスマ的存在のポップ吉村が、マシン貸与を申し出てくれたとのことだ。当時も人気絶頂だった紳介だったので、仲介役がいただろうし、ヨシムラ側としても損をする話ではなかっただろうと、私は想像する。マシン貸与自体は、それほどの美談ではないだろうと。

でも、紳介が恐縮して「なんで自分のような者にマシンを貸して下さるんですか?」と尋ねたら、ポップがこう言ったというセリフが印象に残った。紳介によると、ポップは笑いながら言ったらしい。「あげることができないから、お貸しするんです。」

たぶん、紳介が求めていたのとは全然違う答えだと思う。紳介とポップとを結ぶ線が全然語られていない。でも...私は20年以上前に一度だけ講演を聴いただけだが、ポップらしい素敵な理由だなと感じた。たぶん、紳介が誰か、どれだけのネームバリューがあり、ヨシムラマシンを使用することでどれだけの宣伝効果があるかなどは、ポップにはそれほど興味がなかったのではないだろうか?それよりも、マシンを必用とするチームがあり、自分達のマシンを走らせてくれるかもしれない、だから、貸してあげる。あげることはできないけど、使って下さい、そんな感じだったのかな?と、テロップを読みながら想像していた。

もっとも、オートバイレースでは、転倒クラッシュという事態もあるので、貸与にもかなりのリスクを伴うのだとも思うが...。多分紳介にとっても、とんでもない、チューニングの神様からの贈り物だったのだろう。

この話そのものからは、あまり教訓めいたことを引き出そうとしても野暮だし、ポップ吉村の人柄を感じるだけで十分だと思う。新しい挑戦をする者にとっては、本当に神様のような人に感じられたのではないだろうか。

本論はここまでにして、思い出したので、20年前に聞いたポップ吉村の講演で印象に残ったのを少しだけ記します。

質疑応答で、会場から「なぜ、4気筒の4ストロークエンジンにこだわるのか?」との質問があった。それに対しポップは、4気筒ならば同じ排気量でも1気筒分を小型にできる。その分高回転でまわすことができるので、パワーが引き出せると何度も繰り返していた。この考え方は、ある意味私の原点でもある。

私自身はオートバイには乗らないし、エンジニアとはかけ離れた人生を送っている。でも、「タスクをマルチ化することで一回あたりの仕事の負担が減り、結果として仕事の効率はアップできる」という持論は、ポップのこの返答から来ている。大きな仕事をかかえた場合、最初から順にやっていくのではなく、仕事をブロック化して、(一人であっても)並行して進めていく方が能率が良いのだ。

なので、論文作成でも文献検討から始めて、「はじめに」から書き始める人を良く見かけるが、私はちょっと違う。どちらかと言うと、結論を想定しながら文献をあたり、結果の出し方を思案しながら方法論を練っていくやり方をしている。その作業をパソコン上で行えば、文章は自ずと作成されていくし、「はじめに」は、結論がまとまってから仕上げに書けば良いとも思う。

同じことは、フィギュアスケートのスキル向上でも言えるかもしれない。ジャンプを強化しようと思えば、スケーティングを頑張った方が良いと思う。これは、私の直感なのだが...。ジャンプ動作を考えると、踏み切りもランディングもスケーティングスキルに依るところが結構ある。また、スケーティング動作にもジャンプの動作と共通する部分(例えば軸の移動、膝や足首の使い方)がある。なので、ジャンプを跳ぶためにはどんな動作が求められるのか、それらをブロック化し、同時に高めていく意識を持った方が良いのではないかと考えている。スケーティングの練習中も、「ジャンプの時も似たような動作があるよな」などと意識しながら行っていくのだ。

あるいは、下肢筋力だけに頼らず、足の裏や股関節周囲、そして背筋(浅田真央の広背筋や僧帽筋は本当に見事だ)も使い、体中の様々な筋肉を同時に使って跳び、軸をまとめ、着氷できるようになると、更に効率の良いジャンプになると思う。ひとつの筋肉だけでなく、様々な筋肉を同時に、効率良く使うことで、パワーは向上すると考えるのだ。

紳介へのポップのひとことから、話をむりやりに自分の考えることへ持ってきてしまったが、源流はポップ吉村の言葉にあるということで、どうかご容赦下さい。本当に素敵で、熱い人だったと感じる。

2009年1月 3日 (土)

ダウングレードをめぐる、ある寓話

ある国で、ODAの一環として、よその国に橋をかけてもらうことになりました。

まずやってきたのは、ヨーロッパの職人です。

「私達はあまり技術がないから、ちょっと遠回りになるけど川の上流に短い橋をかけますね。でも、美しい橋にします。」

それは、長さは50メートルくらいですが、欄干いっぱいに彫刻をほどこした、とても美しい橋でした。出来栄えも立派です。

次に、韓国の技術者がやってきました。

「私達には最近勉強した技術があります。長い橋もかけられます。」

そして、下流に、人々が行き来するのに便利な橋をかけてくれました。100メートルは越す長い橋で、しっかりとした造りです。でも、建築の教科書に載ってそうな、面白味の少ない橋でした。

最後に、日本の建築会社がやってきました。

「私達には、技術も経験もあります。夢のような橋をかけてあげましょう。」

そう言って、険しい渓谷に長い長い橋をかけてくれました。一つは川の流れと反対にS字を描いたルッツ橋。それに続けて渦を巻きながら対岸の山へと向かうループ橋もつなげてくれました。ところが、資金難と資材不足で、ループ橋の出口は陸地とつながっていません。

日本人はこう言いました。「橋脚がしっかりしているから、これでも崩壊することはありません。つながっていないのは、ほんの1メートルですから、最後はピョンと飛び越えてもらえばいいでしょう。」

その国の人々は、韓国の橋は喜んで渡り、便利になったとお礼を言いました。また、ヨーロッパの美しい橋も、遠回りをしてでも見物に行きました。でも、日本人のつくった橋には、こわがって寄り付きません。

なぜ、冒険をおかし、技術を尽くしたのに、誰も喜んでくれないのだと憤る日本人に、スイスの賢者はこう言いました。

「向こう岸にかかっているからこそ、橋なのだよ。」

※ この日本人とは、誰でしょうか?

  私達のよく知っている、Maoではありません。確かに、彼女は日本人です。でも、既に彼女は世界中のファンから愛され、ステレオタイプな日本人の枠を越えたアイドルです。だから、彼女ではありません。きっと、Maoはわかっています。

 ならば、もうひとりのMさんでしょうか?彼女でもないと思います。逆風を揚力に換える翼を彼女はもっています。だから、彼女も課題に取り組み、克服すると思います。

 この日本人とは、私達ひとりひとりだと思います。現実的な考えを忘れ、自分の期待で評価を求める時、おうおうにして本質を見失うことはないでしょうか?たとえ鈍くさくても、見栄えはしなくても、向こう岸まで橋をかける努力はせねばと願うものです。

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