まだ何も始まっていない~曽根美樹の引退セレモニー~
今日(3月22日)、朝の貸切練習の後に日本ガイシアリーナへ中日カップ観戦に行って来た。
目的は3つ。
ひとつは、クラブの出場選手達への応援。
二つめは、曽根美樹さんの最後の姿を見届けること。
三つめは、東京へ異動したKさんへ餞別を渡すこと。
Kさんは、2年ほど前に知り合ったマスコミ関係の方。フィギュアスケートの取材をしており、大会のたびに顔をお見かけしていた。異動にともなってフィギュア取材からは退かれるようだが、ファンは続けるとのこと。せっかく東京に行かれるならば、バレエを観る機会を持つのもフィギュアの勉強になるから...と、バレエのDVDを渡そうと思ったのだ。もう、東京に移られているようだが、曽根さん最後の試合ならばきっと来られるだろうと予想して、DVDをバッグに入れておいた。
こういう目論見はたいてい上手くいくのだが、今日も入り口近くに席をとって観戦していたら、その入り口に立っているKさんと目が合った。忘れないうちにDVDを渡し、目的の三つめは首尾よく果たすことができた。選手権クラス女子の競技もKさんと一緒に観戦し、曽根選手のカルメンも観ることができた。怪我との戦いのここ2~3年のうち、最高の演技で締めくくることができたのではないだろうか?
サルコウとトゥループの二種類のトリプルジャンプも気持ちを感じたが、ステップを進めながら上体を大きくうねらせる演技、空気の醸し方は、曽根選手でなければできないものだと思う。今日は、お父様も観に来られたようだが(昔読んだ新聞記事では、曽根選手が父に演技を見に来ないようにと常々言っていたと書いてあったと思う)、プロの俳優の目から観て、娘の演技はどう映ったのだろうか?
滑りも安定しており、一筋の曇りもないような、見事な演技だった。
演技前の鼻かみはいつもの通りだったが、演技後に、応援団に向かってスカートの端を両手で持ち上げてお辞儀をする仕草が、今日はなかった。やはり、そういう気持ちにならないほど、感情が昂ぶっていたのだろう。その代わりというか、演技終了と共に、自然発生的にスタンディングオベーションが起こっていた。おそらく...ジャッジ側(客席には誰もいず)に先ずは挨拶をするので、この時には、曽根選手はスタオベに気づかなかったのではないだろうか?反対側へと振り向き、ファンが皆立ち上がっているのを見た時、曽根選手はどんな風に感じているのだろうか...と、思いながら拍手をしていた。
そもそも、大学卒業と共に引退を決めている選手のために、セレモニーを企画するというのは、前例があるのだろうか?毎年多くの選手達が靴を脱いでいく。卒業という節目でなくても、怪我やさまざまな事情でリンクをさっていかざるを得なくなる人たちは、決して少なくはないと思うのだ。でも、今回の曽根選手のようなケースは、今までに何度あったのだろうか?
そんな風に思いながらも、引退の試合と試合後のセレモニーを観て、素晴らしい機会をつくって下さった関係者の方々に、私も感謝の思いを抱いた。曽根選手のセレモニーは、曽根選手だけでなく、名残を惜しみつつもリンクから去っていく多くの選手達のためのセレモニーだったのかもしれないと思ったのだ。極論を言えば、今後私がフィギュアを諦める時が来たとしても、曽根選手の引退の姿を思い出して、気持ちが慰められるだろう...安心してリンクを去れるかもしれないと感じたのだ。フィギュアを愛し、氷上で懸命に闘って来た多くの選手達を代表して、曽根美樹に、「お疲れ様」の一言を関係者やファンは託したのかもしれないと、私は考えている。
曽根美樹は、選手のハートを代表するにふさわしい選手なのだろう。
私は、2年ほど前に、大須で曽根選手と行き会い、かねてからのファンであることをお話した。その時の曽根選手は、教育実習中に怪我をしたという腕の骨折の治療中で、ギプスをしながら練習をしていた。ブロック大会は、骨折が治っていないのにギプスを外して臨んでいたと記憶している。この年は膝も怪我をしており、全日本は出場が危ぶまれたのにSPを滑りきり、両膝とも具合が悪いのにFSも棄権せずにサロメを演じきった。
大阪の会場で曽根選手と行き会った時、「今日、出場されるのですか?」と問うた私に、「出ます」ときっぱりと言われたのに対し、私は「祈っています」としか言えなかった。この時の曽根選手の想いは、チュッキョフィギュアのバックナンバーでも紹介されています(こちら)。
演技への強い気持ちと後輩達への思いやり...曽根選手の人柄のゆえに、私達は彼女の引退を惜しみながらも、「お疲れ様でした」との言葉を、彼女に託したのだと思う。もしかしたら、ユキナさんへ、あるいはランビエールへ、バトルへ、そして今後も続くであろう「引退」を背負う選手達のために、彼女は代表となって、セレモニーの主役になってくれたのだろう。
試合での演技は、スタオベで幕となったが、中部選手権のスケジュールが全て終了した後で、改めてセレモニーが行われた。というか、予兆は既に表彰式でもあったのだが...。
選手権クラス女子は、今回は二人棄権があったので、入賞は8名ではなく6名になるだろうと、私は考えていた。選手達もそう思っていたようで、7位の後藤選手は既にジャージに着替えており、リンクサイドで皆と一緒にいた。なのに、表彰式で名前をアナウンスされてしまった。困惑したまま動けずにいる間に、8位の曽根選手も呼ばれた。控え室に籠っていた曽根選手が表彰台へ向かう姿は、「大奥」の衣装。靴もしっかりエキシ用のものだった。「もう、いっちゃえ!」という声に押されて、後藤選手もジャージ姿でスニーカーを履いたまま、表彰台へと乗った。ローカル大会なのでかもしれないが、椿事である。
ちなみに、ジュニア選手権と選手権の両クラスでは、入賞した男子選手は全員が、表彰台に乗る前にジャンプを試み、失敗したら表彰台の後ろで腕立て伏せをしてから乗っていた。成功した選手は一人もなかったが...。選手権の中村選手は、腕立てをせずに頭を下げてから乗っていたと記憶している。
このような経緯で、セレモニーでの演目が「大奥」なのが、はからずもわかってしまった。この演目では、上様を思う気持ちをしたためた後、曲調が変わって手紙を自らひきちぎり、リンクサイドの観客を上様と見違えるという場面がある。”THE ICE”では、中継ゲストの加藤和彦や一般のお客様に曽根選手が迫っていたこともあった。今日は誰のもとへ...と思っていったら、リンクサイドに降りていたKさんの手にキスをして去っていった。お互いの卒業への挨拶だったのだろうか...。
でも、曽根選手にしても、Kさんにしても、まだ、何も始まっていない。新しい生活はこれからだと思う。始まっていない以上は、終わってもいないのではないだろうか?念願の高校体育教師になってから、曽根選手のフィギュア生活は終わりを告げるようにも思える。まだ、中部選手権を8位で終えた、ただそれだけではないだろうか?
先週、私の職場でも学位授与式が盛大に行われた。実習の関係で式にも謝恩会にも出られなかったが、臨床で共に時を過ごした学生達が卒業していった。彼女・彼らと曽根選手とが同世代であることに気づいて、軽いめまいを覚える。私にとって、曽根選手は、2005年以来の憧れの選手であり、雲の上の人でもある。心から尊敬している。でも、年齢は、私の教え子と同じだったんだ...と、初めて気が付いた。
このあたりの感覚は、やはり年齢ではなく、その人のキャリアだと思う。フィギュアスケートを始めてやっと4年が経つ私にとっては、ブロック大会から勝ち進んで全日本選手権に出場する7級選手は、本当におよびもつかない世界の住人に思える。何年生きたかではなく、どんなキャリアを積んできたかで勝負する人たちの世界なのだろう。そして、このキャリアは色褪せることもない。だから、曽根美樹選手は、いつまでも、私にとっては第一線の選手であり続ける。マスターピースとなった”サロメ”、2006年の”サラバンド”、ギターに導かれる再現部まで演ってくれた”死の舞踏”など、曲と演技はいつまでも覚えていられると思う。もしも、曽根美樹が私の中で過去のものになるとしたのなら、それは...彼女の踏んだキャリアを私も踏襲し始めた時からであろう。現実的には厳しいが、夢を持つのは自由だろうし...。
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