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2011年8月

2011年8月26日 (金)

ケア担当者こそ、ソーシャルワークを!

待ちわびた やっと鳴いたか つく法師

テニス後に 缶コーラで 夏涼む

もみじ葉の 歳を待たずに 去る父か

8月は、本当に長い月である。初旬のあの日々は、もう数年前のことであったように感じる。月命日までには1週間もあるというのに...。反面、実家に帰っても、「よく来たな」と迎えてくれる父の声がしないことが、不思議に思えてならない。寂しさというよりも、切なさが強い。納得しきれない感情が、時間と共に強まってきているのかもしれない。

ただ、「強くあれ!」と思うこともある。

遺品の整理の必要がないほど、父の書斎は整っている。唯一、属していた句会から遺稿の問い合わせがあったので、それを見つけてFAXしたくらいである。その原稿すら、きちんと清書してあった。痛み・苦しみの最中にある父の意地を見た気がする。

今は、30年近く前のマイコン雑誌を読み返している。コモドールのホビー用マイコンを使って伝票処理のシステム化を実現したというレポートが、幾つかの雑誌で取り上げられた。それが父の本棚に残っていたので、読ませてもらっている。当時の私は高校生であり、父は40代半ばであった。今の私の年齢と同じである。あの頃に、こんな仕事をしていたのかと、思いながら読んでいる。

私には私の仕事があり、立場もある。だから、比較しても仕方がないであろう。ただ、「着手した仕事を何がなんでもやり抜く気概」という迫力は、当時の父よりも劣るかもしれない。

正直、看護・介護の現場では、周囲の雰囲気や同僚の顔色を見て出方を変えるだけの柔軟性は持たねばならない。私の仕事ぶりは、ブルドーザーのように、一気押しの強引さはある。それでも、「やります!」と言った仕事を旗色が悪いからと引っ込めたり、うやむやな状態でお茶を濁したりすることは茶飯事である。特に、上司の支持が得られなくなったら適当なところで手を引くことは、私達の世界ではよくあることかもしれない。

それでも、今、どうしてもやり遂げたい仕事を見つけつつある。ソーシャルワークとケアワークとを融合した仕事の仕方を構築することである。

私達が日々邁進しているケアワークは、戦いで例えれば、地上戦のようなものである。多くの人員を要し、定型的な行動を反復させつつ前進を目指していく活動であろう。前進とは、回復や在宅復帰というよりも、”日々を過ごす”という時間軸の進行の意味合いが大きいのだが。しかも、各フロア、各施設で独立して行っている局地戦みたいなものである。フロア間、施設間でのネットワーク構築は考えられていないのではないか?

そのような、局地的地上戦のような実践を日々積み重ねていっても、ケアの目的・目標といった方向性が不明確であれば、地雷原に歩兵を突っ込ませるような事態になりかねないのではないだろうか?「そういう事態にならないためにサービス担当者会議でケアの方向性を決定するようにと介護保険では決められているのではないか?」と思うこともある。しかし、半年に1回、ケアマネの音頭とりで開催される会議で作文された”援助の方向性”に、どれだけの説得力があるのだろうか?あるいは、長期・短期目標がケアプランに盛り込まれたところで、それらが歩兵達を着実に、犠牲を少なくして前進できる方角を示してくれるのであろうか?(有効な目標設定の困難さは、大学教員時代に、看護学部生を指導して痛感した。)

常套句であるが、やはり記さずにおれない。「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ!」ベッドサイドでの声をボトムアップできなければ、会議での作文を繰り返しても、実際のケアには生きてこないのではないだろうか?

だからこそ、私は、ケア担当者達にソーシャルワークを実践してほしいと考えている。具体的にどうこうは、今後の自己学習と自己研鑽にかかっているのだが...、”ソーシャルワーク”が今後のケアワークのキーワードに成り得ると直感しているのである。

ソーシャルワークは、戦いで例えれば、空中戦のようなものである。しかも、要撃戦闘(戦闘機同士の戦い)のような制空権の争いではない。近接航空支援のように、地上戦を円滑かつ効果的に遂行するための戦いである。ケアの展開にとって困難が予測される場合、その要因を分析し、要因の改善を図ることはソーシャルワークに含まれないであろうか?

例えば、自宅復帰を目指して入所してきた利用者にとって、自宅の障害(バリア)を放置することは、施設ケアの進展のうえでも障害要因となりうる。では、その改善は誰に委ねられるのか?リハビリ療法士、ソーシャルワーカー、あるいはケアマネージャーだけで事態の解決は図れるのか?従来の施設ケアでは「是」であったであろう。でも、その結果、住宅改修の状況と施設内ケアの内容との乖離が生じることもあったかもしれない。実際、在宅復帰よりも特養待機待ちの利用者の方が、私の働く現場では圧倒的である。

ケア担当者は、住宅改修や社会資源利用を含めた家族介護の準備状況、本人・家族間の療養方針の調整に関心を持った方が良いのではないであろうか?そうせねば、血の通ったケア計画は策定できないように思うのだが...。ケアマネが単独で家族と面接し、要望を聞き、それを書面を通じてケア担当者に伝達する。そういう”お役所的”な仕事の仕方で、地上戦が有利に展開できるものであろうか?私には、介護保険の現状は、机上での空論と根拠に乏しい精神論とで戦況打開を貫徹しようとした、過去の戦争の在り様に似ているように思うのだが...。

先日、高口光子氏の講演を聴く機会があったのだが、全体を通して心に重く残ったのは、次の疑問であった。「先生、弾薬や糧食の備えは大丈夫でしょうか?」

家族の要望をこと細かに聴き、その通りのケアを施設内で保証しなさいという主張に対し、「コスト意識は必要ないのか?」と思ったのである。人員・財源が限られている現場で、おそらく求められるであろうことは、”調整”の一言である。家族の要望を「できません!」の一言で蹴るべきとは思わない。私の恩師は、こう言った。

家族は様々なことを希望します。患者さん(恩師は病院の指導者であったので)も色々なことを口にするでしょう。中には、現実的でないこともあるかもしれません。でも、一度は、「わかりました。検討してみます」と答えて下さい。すぐに、「無理です」「できません」と断ることはしないで下さい。検討しても、やっぱり無理な要望であれば、改めて断り、お詫びすれば良いのです。

要望を無条件に受け入れるのと、一度留保して検討するのとでは、実現可能性という意味では雲泥の差がある。もちろん、後者の方が実現の可能性が高いであろう。無条件ではなく、検討をして必要ならば調整し、家族・本人と交渉していく、そういう働きもソーシャルワークではなかろうか。これらの、調整的な仕事を、ケアマネやソーシャルワーカーだけに任せ、彼らの仕事振りを信頼するだけで、果たして我々は満足できるであろうか?

結局は、「事務所に無理難題を押し付けられた」「彼らは現場を知らないから」という不平・不満が積み重なるだけではないか。私達は、そういう泥沼をかきわけて邁進しているのである。

もしも、既得権者達が、高見の見物あるいは制空権の争奪に終始しているだけならば、私達も翼を持つべきではないか?「権限」の奪い合いに参加することはない!ソーシャルワークに業務独占は規定されていないのだから(名称独占資格ではあるが)。味方の戦いが有利に運ぶように、私達自身が高い位置に立ち、家族・本人との調整に働くべきなのである。一方的な請け合いではなく、「実際にケアできるサービス内容」について対象者達と相談すべきなのである。そして、私達が、施設内でのケアプランを策定すれば良かろう。必要ならば、施設外の事業者との調整を図るように、私達がケアマネージャーを使ってやれば良い。

正直、サービス担当者会議なんぞ、くそくらえ!である。

書類を整えるためという存在意義は認めるのだが...。役所にはそういう機能も必要なことは、父の死亡に関する取り扱いで実感した。幸い、私の家ではPSWの姉が、煩雑な行政への届出や銀行との財産関係の折衝を一手に引き受けてくれた。でも、ベッドサイドは役所ではない。福祉施設の事務所がお役所的であったとしても、私達の現場までそうであってはならない!!

家族が何かを相談する時に、「それはケアマネに言って下さい。次の相談日は何月何日です」と返答するのは、やはりよろしくないであろう。ベッドサイドで得た情報は、ケアマネやソーシャルワーカーにも伝達できた方が良い。でも、その情報に答えを出すのは、私達、利用者本人を実際にお世話しているケア担当者でなければならないのではないか?

そういう試みは、もしかしたら、ケアマネやソーシャルワーカーの仕事を奪うことになるのかもしれない。でも、既得権を慮って可能性を躊躇することは許されない時代が到来するであろう。血の通ったケアができないために要介護度が増していく現状に、世間はどこまで寛容であるか?という問題である。「人手が足りない、待遇が良くない」と同情してくれるのが、あと何年続くであろうか?

人手が足りないのなら、今いる人員でサービス内容を調整すべきではないか?待遇が良くないのなら、コスト削減を条件にして待遇改善を経営者と折衝すべきではないか?仮に、人手が1.5倍に増加し、一人あたりの賃金も1.5倍になったとすれば、総賃金は2.25倍に膨れ上がる。総支出の50%が人件費だったとすれば、収入が62.5%増額しなければ、この条件は実現できない。増収は補助金を当てにすべきであろうか?結局は我々の税金あるいは介護保険料ではないか?

世間が「いい加減にしろ!」と言う前に、実効性のあるケア実践が求められるであろう。丁寧で親切なケア、家族に親身になるケアは大切である。しかし、末端まで血の通ったケアを実現するには、ソーシャルワークを一部の権限ある者たちから開放することが肝心だと考えるのである。「その対象者のためにどうしてそのケアを行うのか?」ケアを行う目的や意義こそが、我々ケア担当者の血潮である。この血脈を絶やさないためには、末端こそが躍動せねばならないからである。私達が、やる気を起こさねばならない。しかも、闇雲にではなく、実効性のあるケアをやらねばならないのであろう。

上から押し付けられたのでは、皆で実効性を検討しあえるケア計画なぞ、とても作れない。やる気は起こらないであろう。ケア計画を率先して立てるためには何が必要か?「施設でよろしくお願いします」と言わずにおれないご家族と、私達が対面すること、それ以外にないのではないか!?

だから、私達はソーシャルワークにまで、手を染めねばならない。そう考えるのである。

(蛇足)

「マルクス主義の誤りは、人が欲望で動くという事実を無視したこと」と学生時代に耳にした。そのもじりで記せば、「介護保険の誤謬は、人のやる気が仕組みの複雑さに反比例することを知らなかったことにある」と私は考える。この仮説を雄弁に語るのは、世界一複雑と言われている、日本の年金制度の在り様であろう。今現在、率先して年金を納める日本国民がどのくらい居るであろうか?

利用者との折衝、プラン策定、ケア実施 効果判定の四つをケア担当者に一元化すれば、ケア現場におけるPDCAサイクルの構築が可能であろう。

2011年8月23日 (火)

父のこと

人の情 こぼれる涙に 月映える

本日、このブログに載せてきた句を、父が世話になっていた句会の方へお送りした。父のように本格的に俳句を嗜んではいない。全くの我流で、五七五に気持ちを押し込んでいるだけである。季語もあてずっぽうで、歳時記を紐解いたこともない。

ただ、「嗚呼。。。」と声にする代わりに、書き記していただけである。

偉大な父親であった。8月5日の前夜式と8月6日の葬儀には、それぞれ100名以上の方々が別れを惜しんでくれた。関連会社の社長まで勤めた現役を退いて10年以上が経つのに、それだけの人が来て下さったのは、死ぬ直前まで交友を絶やさなかった父の努力以外の何ものでもなかっただろう。

7月には親族が30名近く集い、自宅近くのホテルで夕食会が開かれた。3度目の入退院の直後であり、主役の父の参加は無理かと私は思っていた。しかし、車椅子ながらも皆の前に顔を出し、最後まで食事を共にし、挨拶もしてくれた。膵臓がんのステージ4の告知を受けてから半年が経つというのに、その気丈ぶりはなんということであっただろうか?

8月1日、2日と自宅浴室の改装のために同じホテルで昼間を過ごした。私も同行したのだが、満足していたようだと付き添いの母も言っていた。既に体内のたんぱく質が大幅に欠乏しており、むくみや腹水も目立ち、動くにも難儀している状態であった。それでも、自分で靴(むくみに対応したサイズの大きなものだったが)を履き、悠然と歩き、車椅子に乗り、ホテルでのひと時を楽しめた様であった。

実は、8月2日は、私は付き添わずに実家で休んでいた。前々日の夜に、飼い犬に手を噛まれ、その傷が軽度であるが化膿してしまっていた。そのストレスか体調を崩したので、一度はホテルへ届け物をしたが、父の送り迎えの車は、母に運転を頼んでしまった。ホテルで父と別れ、「ありがとう」と言われたのか言われなかったのかも覚えていない。それが、意識のある父と会った最後であった。

8月3日の深夜に母から連絡があり、父の血圧が下がっていることを知り、急いで実家へ向かった。駆けつけた時には昏睡状態になっており、かろうじて息をしていることを妻が確認してくれた。母に言われ、私が血圧を測っている最中に、父は息絶えた。母、私、妻の三人のナースが職業意識を剥き出しにし、懸命に頑張っているなか、父は逝ってしまったのだ...。ただ、父の手を、マンシェットを巻こうとしてではあるが、握っていたことだけが、私の救いであった。「ここにいるよ」という呼びかけは、父の意識に届いていたのだろうか?

その日の昼間は、体調が全く芳しくないにもかかわらず、改修工事を終えた職人さんたちに挨拶をし、労をねぎらっていたと、母から何度も聞かされている。おそらく、母はこれからも語り続けるだろう。工事の担当者の方は、涙を流しながら葬儀に来て下さった。その思いだけで、改修工事の断行は正しかったと私は信じている。

現場に生き、そこで汗を流すことに生きがいを感じていた父への最大の手向けでなかっただろうか。

父の最期の様子については、葬儀の際に親族代表として、私から会葬者皆様に報告させて頂いた。息子から見た父の天晴れさについては、

雨後天晴 雲破れる処の青

という言葉のみにとどめさせてもらった。父の生き様については、会葬された方々、皆が知ってらっしゃると考えたのだ。

あまり知られていない、父の功績について一つだけ記せば、私達の直系の先祖である与論島の黒田家と鹿児島の薩摩黒田家とのつながりについて、郷土史家や与論・薩摩双方の末裔との調査で実証したことを挙げさせてほしい。300年前に薩摩黒田家の代官である黒田納右衛門の庶子が与論黒田家の初代であることは、与論側の口伝として伝えられていたが、その真実性の実証を薩摩側の記録と照らし合わせて調査し、系図の編纂を行い、系譜として纏めた編集委員に、父も加わっていた。

おそらく、清隆、清輝、清孝という政治・絵画・音楽で傑出した人物のいる薩摩の一族への憧れを、与論はもっていたのであろう。それで、自分達も先祖を同じとする者どもであることを語り継がずにはおれなかったのであろう。その思いは、私にも伝わるものがある。伝説に過ぎなかった端緒のつながりを歴史学的に実証することで、自分達のルーツを明かし、家に関する自信を与えた意味で、父たちの事業は私にとっても大きいものである。

書店の社員として働きながら、遠い与論の島の郷土史を研究し続けた努力には、敬服するしかない。そして、それ以上の努力と使命感を持って、明治以降の日本国の戦争について調べ続けていた。なぜ、太平洋戦争へと至ったのか?日清・日露戦争は国際的地位向上のために、本当に必要だったのか?それについて一定の成果を原稿にして、出版を待つ間に父は去ってしまった。出来上がった書籍は葬儀の受付で、あるいは郵送で、父の死を悼む方々へ送ることになった。母と私の妻がその労を担ってくれた。

父の論調は反戦で一貫しており、過去の日本においても将来の私達についてもその姿勢は変らないらしい。将来については、私も意見を同じくするのだが、過去の戦争を徹底的に否定する父の強固な論調には違和感を感じている。「なぜ、そこまで過去に拘るのか?」は、息子にとっては大きな謎である。クリスチャンである姉や周囲の方々にとっては、徹底した反戦思想は自明のことであり、父の研究もその傍証との位置づけのようである。

しかし、私はクリスチャンではない。キリスト教に親しんでいるが、徹底して距離を置いている。その姿勢を生涯貫くつもりである。だから、反戦は自明ではなく、経験から導かれた智と信じている。なので、なぜ、父は反戦の思想に染められたのか?その思いを知りたいと願っている。全てではなくても、息子として納得のできる範囲で、父を知ろうと思う。結果、私の意志が揺らぐことがあったとしても、それが私なりの贖罪につながるのなら、幸せなことかもしれない。

明治の日本の礎を築いた一族と自分達とのつながりを明かしながら、近代化を急ぎすぎた日本の顛末を否定的に調べ続けた父の思いは、与論黒田家の口伝へのアンチテーゼでもあるのであろうか?そうだとしても、更に次の段階へ、与論黒田家の末裔である私は進まねばならない。皮肉にも、父から明治の二人の宰相の名を与えられた私が、日本の近代化を否定するのか、それとも、廃墟からの再生を賛美するのか、震災後の復興と歩みを合わせて選択せねばならないであろう。私とても、歴史の中を生きているのである。

2011年8月21日 (日)

初めての壁打ち

フィギュアスケートについては、マスターズ以降は一度もリンクに行っていない。

情熱が無くなったわけではないのだが、他にやるべきこと・やりたいことが多くて、練習に行く気持ちになれなくなっている。休みの丸一日を、ガソリンを燃やして往復200キロ以上の道中をスケートのためだけに使うのは、今の事情では許されない。経済的にも、心情的にも...。

でも、フィギュアスケートが素晴らしく、魅力に富んだスポーツであることは間違いないので、近隣のリンクが冬季営業を始めたら練習を再開したいと思っている。その時にあわてないように、陸上でのトレーニングは、細々ながらも続けている。健康にも良いだろうし。

別に、スケートのためのトレーニングというわけではないが、8月からテニスの教室に通い始めた。週1回の1時間半のグループレッスンなので、それほど本格的ではない。でも、テニス自体がハードなスポーツなので、自主練習も含めれば、結構な運動になると思う。

大人対象で、ミニゲームも楽しめるようになることが目標の教室(1年コース)なので、コーチからは進度が早いと伝えられている。今までに2回のレッスンを受けた(今週はお盆休みだった)のだが、1回目でフォアハンドとバックハンドのストローク、2回目はサーブとフォアハンドのボレーまで習った。確かに、どんどん進んでいる感じである。最初はコーチがトスするボールをネット越しに打つだけだったのだが、2回目のレッスンからはネット向こうの相手と簡単なラリーをする練習まで入ってきた。私はまだ、腰のあたりに来たボールを打ち返すくらいしかできないので、ラリーは2~3回しか続かない。相手の方に申し訳ないのだが...。

正直、どんどん進むのに面喰っているのだが、これはフィギュアスケートでも同じだった。6年前に習い始めた時には、最初のレッスンでフォアとバックのストロークを習った。子供の頃に遊びで滑った経験があったので、ヨタヨタながらもバックが滑れたので、その最初のレッスンの終わりにモホークターンを教わったことを覚えている。今振り返っても、初めてのレッスンでモホークは無理だろうと思うのだが....。第一、片足に乗れないのだし。

でも、こういう、思い切った進み方で、なんとなくでもついていこうとするのが、大人初心者の対応力なのかもしれない。「基礎ができていない」と言われがちな大人初心者なのだが、脆弱な土台でも、勢いと人生経験でなんとか誤魔化してしまえるのも、大人の強さではないかなと、最近考えている。

要するに、ハッタリなのだが....。

記し忘れたが、8月からというのは中途からの受講である。他の方々は4月から、あるいは前年から引き続いて教室に通っている。私以外はすべて先輩なのである。私は、たまたま募集チラシを、最近目にしたので「8月からでも良いですか?」と応募したのだが。だから、中途で習い始めた私のために、コーチはラケットの握り方からマンツーマンで教えて下さり、おそらくは他の先輩方が既に通ってこられた道筋を、私一人のために繰り返してくれているのである。

もちろん、中途受講生を募集し、8月開始を許可したのはスクールの方なのだから、私一人が遅れているのを気兼ねすることはないのだろう。でも、ミソっかすながらも、あんまり他の方々から離れてしまうのも面白くない。一緒の練習にマゼてもらえるように、少しは頑張って上達したいものである。

というわけで、先日、近く(車で40分くらいの距離だが、名古屋のリンクに比べれば格段に近いであろう)にあるテニス場へ行ってきた。妻と一緒だったが、お互いにコートで打ちあえるほど上手ではない。今回は、そのテニス場にある壁打ちコートを見に行ってきたのである。壁打ちの場所は東京では沢山あるようだが、私の地元ではほとんどみかけない。ネットでの検索を繰り返し、やっと見つけたのが、湖西市新居町体育館のテニスコートである。3面ほどあるコートの向こうに、壁打ち専用のスペースがある。利用料200円ナリ。

まだ8月から始めたばかりなので、ラケットはスポーツショップから借りた試打用のものを持って行った。スケートで言えば貸靴みたいなものか。妻(彼女はテニスを習う気持ちは、まだないみたいだが...)は体育館で1本貸してもらった。テニスシューズも用意してなく、通勤(兼ジョギング)用の運動靴で行った。

まだ、ネット越しにゆるいボールを打ち合う程度の経験しかなかったので、壁打ちはハードルが高かった。とにかく、壁打ちのできる練習場を見つけるのが第一目的だったので、自分の上手下手は関係なかった。上達してくれば、ちゃんと練習できるようになるだろう。

それで、妻に撮ってもらったのが次の動画です。

動画で見ると、いろいろなことがわかって、本当に勉強になる。

ストロークのぎこちなさや、フォロースルー(ボールを打った後の振り切り動作)のマズさは、経験(=練習量)の少なさのためだと思う。おっかなびっくり球を打っているため、全然振り切れていない。むしろ、フォアハンドのインパクトの際に前側(左側)の足に重心が乗り切れていないのが、動画で目に付いた。やはりおっかなびっくりのため、腰が引けているからだろう。そのために、フォアで打つとボールが上の方に行き、ともするとホームランになるのかもしれない。

ボールのコントロールができないので、返ってくる打球が前後左右に散らばって難儀しているのだが...小刻みなステップで打ち返すべき場所に移動できているのは良いことだと思う。このことは、最初のレッスンでもコーチから褒められたのだが、”走って構え、構えて打ち、また走って構え”というステップワークとストロークの連動は、大人にとっては結構難しいらしい。

移動しながら要求された動作をするという経験は、おそらく、フィギュアスケートの賜物だろう。スケート同様、緊張から肩が上がってしまっているのは御愛嬌だが...。

余談だが、テニスコートは非常に滑りやすい。レッスンを受けているコートはオムニコートという水はけの良いタイプなのだが、その上に砂を撒いているのか、表面がザラザラしている。そこを走ると思いっきり滑りそうになる。陸上ジャンプの練習には良さそうだが...。縦横にステップを踏んでスタンスを広げる時に気を抜くと、一気にバランスを崩しそうになる。大げさではないが、スケートリンク並みのスリルであったりする。そういう環境でも一生懸命動けるのも、スケートをやっていたおかげかなと感じる。

Img_1723

で、一昨日にテニスシューズとラケットを近隣のスポーツショップで購入した。ラケットはそのショップで借りていたものと同じ製品。入門用に良いとのこと。ブレードで言えばコロネーションエースみたいなものか、メーカー名も同じウィルソンだし。靴はヨネックス。2万円近い価格だったが、コート上での踏ん張りと着地時のクッションに優れていると、店員さんが強く勧めてくれた。知らなかったのだが、テニスでもジャンプすることがあるらしい。スマッシュとかサーブの時なのだそうだが...。そこでもフィギュアの経験が生かせたら嬉しいなと思う。

靴はまだ慣らしの段階で練習には使っていないが、ラケットは素振りの練習で使っている。フォアハンドのグリップに難儀していたが、素振りを続けることで馴染み始めたと思う。このグリップを正確に、素早く替えられることがテニスでは重要なようだ。そこにも奥の深さがあるようなので、楽しんで練習していきたい。

2011年8月17日 (水)

対話の重要性

妻が大学から借りてきてくれたので、三好春樹の「介護職よ、給料分の仕事をしよう」を読み始めた。自身が責任編集している雑誌への投稿記事を書籍にしたものらしく、平易な表現で文章の区切りも短いので読みやすい。スラスラ読めてしまうという感じである。

内容については、示唆に富む部分もあるが、基本的には首を傾げてしまうところもある。私のように医療の現場から福祉へ入ったものとしては、「そこまで医師・看護師を目の敵にしなくても...」と思うところもある。確かに、医療優先の考え方が器具や薬剤を用いて高齢者の活動性を奪い、結果として寝たきり状態にさせたという反省はある。”生活”の軽視が高齢者の”今”を奪ってきたとも言えるだろう。

しかし、その咎は医療者だけが負うべきなのだろうか?

今は福祉の現場で働いているが、介護職者が寝たきりを作っている場面に遭遇することもある。そこで言う「介護職者」に自分も入っているのだが。誰が悪い、誰は悪くないと紙上で議論することは容易かもしれない。でも、もっと簡単なことがある。「悪いのは自分(=医療職の経験もあり、介護の現場でも働いている看護師)である」と認めることであろう。どんな現場に移っても、私は寝たきりの方々に付き合ってきた。活発に生活されてきた高齢者が、次第に衰え、あるいは私達が制限を加えて、寝たきり状態になっていった経過もみてきた。言いきってしまえば、確かに、私達が寝たきり状態にさせてしまったのだろう。

少なくとも...医療が悪いとか、でも介護でもやってるじゃないか!とお互いを非難し合うよりかは、自身の反省として寝たきりについてを受け留めた方が、議論になるのではないだろうか?

だとすれば...高齢者を寝たきり状態にさせてしまっている私達は、給料分の仕事をしていないのだろうか?糾弾される側に立たされるだけなのだろうか?

私は思うのだが...もしも、そう糾弾されるとしても、その反省に立ち、自分達の仕事のどこがマズかったのか、至らなかったのかを分析し、何らかの指針を導き出すのであれば、私は給料分の仕事を果たしていると言えると考える。開き直るわけではなく、自分の信じる現実として記すのだが、高齢者が寝たきり状態になる要因は複雑である。そこには、身体や環境だけではなく、高齢者自身やご家族の心理的要因もからんでくる。”易疲労状態”という概念を明確にして、それに取り組まねば、寝たきりは予防できないのではないかとも考えている。要因が複雑であり、単独のワーカーの力量ではコントロールができない大きな問題であるのなら、「給料分」働けという要求には、次のように答えたい。

自身とチームの力量を十分に発揮しての結果については個人に責任を追及すべきではない。その結果については、自身とチームとが経過と結果を振り返ることで、今後について更に高いパフォーマンスを望むのなら、責任は十分に果たせたと言えるのではないだろうか?要するに、寝たきりは、個人や組織の怠慢が作るのではない。私はそう考えている。

しかしながら、個人や組織に何らかの無知・不見識があるのは、肌で感じている。それを自覚し、謙虚に教えを乞う態度は重要ではないだろうか?そうはいっても、介護の現場の不備や意識不足をあげつらうような講座は論外である。三好春樹氏と彼の仲間達には、そういう空気を感じている。しかし、彼らの言わんとすることに耳を傾け、心に手をあてる度量は求められている気がする。

彼らが、看護師をチンピラナース(by 高口光子)と呼ぶのなら、「確かにそういう部分はあるかもしれませんね」と言う。三好氏が医療職者は介護に無力と記すなら、「昔はそうだった、その反省は重要だと考えます」と言わねばならないだろう。人に責めを帰すよりも、咎を負う者でありたい。それにより、「その反省を踏まえて、生活を重視し、それを崩さないための保健・医療の提供が、これからの医療職者に求められていませんか?それができれば、私達医療者も、介護の現場に参加できるのではないでしょうか?」と、彼らに問い返すことができるであろう。

まず、咎を自ら負い、その痛みを病む者のそれと理解する。そこに手当てすることで新しい力を得る。私達は医療者である。人を手当し、支えとすることに喜びを得る職種であろう。

糖尿病で腐りかかった、蛆が湧いた傷を精製水で洗い流す。消毒薬で清潔にしてガーゼと包帯で保護をする。先人が経験した実践だが、似たような経験は私もしている。これは、私達でなければできないであろう。誇ることなく、謙虚に、自分達でなければできない仕事を、介護の現場で役立てていきたいものである。

2011年8月11日 (木)

夕暮れの在所

届かぬと 月が諭す 散歩道

精白な 舎利を心に 頭あげ

父の書斎にて

帰らぬなら 閉じるもよろし 父の本

2011年8月 6日 (土)

斎場の外にて

天高く 雲立ち上る 赤とんぼ

2011年8月 4日 (木)

2時45分 戦い終わる

父逝きて 高き志し 明けの空

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