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2011年2月

2011年2月26日 (土)

不倒、不屈

フィギュアスケートを通して学んでいることを言葉にすれば、「不倒、不屈の精神」だと思う。

父の病気がわかってから、つくづくと感じる。

今月初めのERCP(内視鏡的逆行性膵胆管造影検査)で診断が確定したのだが、膵臓がんのステージⅣということで、化学療法の1回目を行ってから、先日自宅退院した。本人にも告知されており、予後が厳しいことは了解しているようだ。子供としては、とにかく幸せな時期を少しでも長く過ごして頂けたらと願っている。もしも辛い病期に至ったとしても、その記憶が心身の支えになってくれるのではないかと期待しているのだ。

幸い、今のところは元気であり、抗がん剤の副作用は多少あるとのことだが、日常生活には支障がないようである。自分で車を運転して、パソコンの新規購入や図書館への本の借り出しなどもしている。身辺整理については、母を通してある程度考えているのかもしれないが、私は具体的には聞いていない。仕事をリタイアして随分たっているし、財産と言えるものはわずかしかなく、それにしても母との共有のものが多いので、それほど大変ではないのだろう。

つくづく感じるのだが、肉親の死別を現実のものとして考えなければならないのは、辛い体験である。

仕事がら、人の死は身近なものであった。1月には、自分が見送った入居者のご葬儀の看板を目にして、ある種の因果を看護という仕事に感じたことがあった。看取りは数え切れないほど経験しているが、葬儀の場面を目にしたことはそれまでなかったのだ。

でも、こんなに早い時期に、肉親の看護や看取りを覚悟せねばならなくなるとは考えていなかった。”Memento mori”の言葉を覚えてはいたのだが....。実感しているのは、心を穏やかに保つためには時間が必要であり、その時期に人ができることは、それほど多くないということである。ゆっくりと、心を落ち着けて、心の中の棚に辛い思いを整頓していくことが、今の時期には求められているのだと感じている。

だから、父に身辺整理を勧めることは、私はしていない。父もそれなりに考えているのだろう。現在取りかかっている仕事(趣味で近代日本の歴史を調べて自分で本にまとめている。ソシャルダンスについては20年以上競技を続け、同好会の世話役もしている)の仕上げや引き継ぎを、この自宅療養の時間でしているのだろうから。人は事務マシーンではない。「しなければならないこと」「した方が良いこと」は沢山ある。でも、自らが引き受けて手がけていくならば可能でも、人から説得されては着手できないこともある。死を前にしての準備教育は、その典型なのかもしれない。「あなたはもう死ぬのだから、これこれのことを事前にしておきなさい」などという教育は、言葉と観念の暴力以外の何物でもない。

その意味では、私達の家族は、死に関する思考の時間が停滞しているのだろう。でも、それで良いのだと思う。今は、ゆっくりと現実を受け留める時期であり、いずれは現実に圧倒される時期が来るのだろうから。その時に右往左往しないためにも、今は心構えを造っておくべきであろう。事務仕事はあわてなくて良い。もしも、遅きに失することが出たとしたならば、ゆっくりと後悔すれば良い。その心構えだけは、既にできている。

しかしながら、あわててしまい、焦っていることがある。

父母が私の演技を観たいと言っているらしい...。私が仕事に行っている間に妻が実家(父が療養している自宅と私達の住居とは、車で30分くらい離れている)へ様子を見に行ってくれた時に、聞いてくれた情報なのだが...。

練習は、今でも続けている。

でも、あくまでも気晴らし程度であり、入院中には頻繁に面会に行っていたので、それで時間がなくなってしまうことも多々あった。今でも、リンクよりも実家へ足が向くことが多いし、それが当たり前だと思う。オフリンクのトレーニングも続けているが、やはり制約は多い。一日15分くらい、時間を盗むようにして努力しなければ続かない。仕事からの帰宅後は、食事をいただきながら夫婦の一日の報告と、今後についての話し合いをし、お互いの親のことを気遣いあうことは、できていると思う。深く感謝している。でも、その後はばったり倒れて寝てしまう。そして、きまって夜中に目が覚める。またすぐに眠るので、睡眠不足という自覚はないのだが、断眠傾向ではあるようだ。悩みが深いのだから、仕方がないのだろう。

今は、体調の維持が急務である。しなければいけないことは、じっとしていても増えてくる。今は、倒れるわけにはいかない。

だから、トレーニングの密度については、「あまり考えないこと」にしていた。でも、もしも...親が私の演技を観たいというのなら、「それなりのこと」は考えずにおれない。

当たり前の話だが、自分の趣味の世界に親を入れたことはない。

中年の男が、歳を憚らずにやっている趣味なのだから、親の理解はなくて良いと思っている。それでも、一時期は、ガソリン代と駐車料金をケチるために、駅までの送迎を親に頼んでいたこともあったのだが....。私だって、父の趣味や母の趣味(キルト制作を夜なべでやっている。かなりの労作を量産しており、家中をキルトで埋め尽くすつもりらしい...。)に口出ししたり、観に行ったりしたことはなかった。大人同士だから、お互いの領分を尊重すれば良いと考えていた。不干渉政策である。

私の趣味に口出しできるのは、生涯を共にする妻だけだろう。

でも、最近、昔のことをよく思いだす。

自分が小さい頃に、父にしてもらった楽しい思い出を、しきりと考えてしまう。夢にみたりはしないのだが、仕事の合間とか、家でぼーっとしている時に、ふと思い出す。もしかしたら、親もそうなのかもしれない。将来へはゆっくりと向かっているぶん、過去には急いで遡っているのかもしれない。中・高とやっていた吹奏楽部のコンクールには、親にも来てもらっていた。だから、そういう懐かしさもあるのかもしれない。

演技を観てもらう機会は、あると思う。

父の看病に時間が欲しいからと、クラブは休会させてもらっている。クラブや市協会の仕事も別の人に引き継いで頂き、役職は辞している。でも、先生との関係は続いており、先日はジャンプ教室に出させてもらった。ジャンプの勘はかなりくるっていたし、スタミナも続かなくなっていたが、とにかく体が動かせて嬉しかった。きっと、クラブ復帰の希望はきいていただけると思うし、そうすれば、4月上旬のクラブ発表会に出させてもらえるだろう。

問題は、父の病状と私の技量だろう。

4月上旬は寒暖の差が激しい時期でもある。しかも、外気温よりかなり低いリンクに短時間だけでも居られるだろうか?発表会ならば待機時間も考えなければいけないし、その時はどこに居てもらい、どんな服装ならば身体にストレスがかからないのか?私が担当ナースだったら、そういう外出を賛成するだろうか?もしも、賛成するならば、どんなプランを立案するだろうか?そうまでして来てもらうのなら、情けない演技はしたくない。だとしたら、練習を再開せねば....気晴らしではなく、人に観ていただく演技のための努力をせねばならないのだろう...。

姉(看護師ではないが、福祉の現場で似たような仕事をしている)の協力も求めないといけないのだろう。母と妻と私だけでは、送迎、待機、防寒対策、アフターケアはしきれない。病状によっては、外出ではなく、自宅で発表会の映像を観てもらうという方法もある。その方がリスクは少ないだろう。でも、本人が「行きたい!」と積極的に思っているのならば、その気持ちは大事にせねばならない。行きたいと生きたいはイコールなのだろうから。私が、その思いに応える演技ができるのだろうか?

少し前に、身体に障害を負った我が子に、「不可能ではないこと」を伝えるために、その子を負ってトライアスロンに参加した父親の話を、テレビで観た。もしも、神がいるとしたなら、私にそれと同じことを父のためにせよと、おっしゃるのだろうか???

私自身は、「本気で頑張ること」を表現したくて、フィギュアスケートに手を染めている。それは、中学を卒業して小さな書店に就職し、その書店が県下一の規模にまで成長するのに貢献した自分の父親の後ろ姿から学んだことである。ただ、私は親と違い、立派な大学まで出させてもらったのに、それとは別畑の分野でボソボソと、職場を転々として万年ルーキーから抜け出せていない。「頑張ること」は両親から学んだが、社会の中での頑張り方は、親の世代とは違うのではないかと考えている。

仕事は、もちろん頑張っている。看護師であることに誇りを感じているし、精一杯、力を発揮している。でも、個人の突出を嫌い、チームの和を是とする世界でもあり、父や姉のように社会に認められる活躍を果たすことは、この世界で生きる私にはないと考えている。もちろん、看護師でも業界で一目置かれる人はいるのだが、私はそんな風にはなれないだろう。大学の教員時代もそうであったが、”黒子に徹する”ことが、自分の持ち味だと考えている。だから、出世という言葉は、とうの昔に自分の辞書からは除外してしまった。すまないのだが....。でも、そうでなければ、私のような不器用で意思薄弱な人間は医療の世界で生き続けられなかったとも考えている。

そういう自分が、唯一発揮しきれる”我”が、リンクにはあった。フィギュアスケートは、基本的にはチームスポーツだと思う。競技会は個人単位だが、練習はクラブチーム単位なので。それでも、技量の向上は個人の努力に負う部分が多く、いかに”我”を表現できるかが演技の善し悪しに関わってくるとも言えるだろう。もっとも、我を表現するにしても、音楽との調和や技術の基準への尊重など、他者から認められやすい表現が求められるのだが...この難しさもフィギュアスケートの素晴らしさなのかもしれない。とにかく、”我”にこだわり、”我”を表現する、という感覚は私の仕事にはなかった。だからこそ、「仕事にはない自分」を見つけたくてこのスポーツに一生懸命なのだと思うのだ。

そういう意味では、両親から受け継いだ気質とは少し違った自分が、リンクには居るのかもしれない。社会人として生き続けるために修正された自我が、行き詰りを突破するためにもがいている姿がリンクにあるのかもしれない。でも、その姿を親に見せるのは、気恥ずかしい。スナックで酔っぱらってカラオケで歌っている醜態を親に見られるような感じに近いのではないだろうか.....。フィギュアスケートは立派なスポーツであり、美を是としているが、「違う自分を表現したい」という意味では、カラオケに似ているようにも思える(少なくとも、社会人スケーターの場合には....)。

それでも、親が私の演技を観てみたいと思うのなら、「不倒、不屈」の想いを籠めたい。

私のフィギュアスケートは、転ばないフィギュアスケートである。それに拘り、そのために陸上や水中トレーニングを取り入れた。上半身の強さは、演技の上ではマイナスになることもある。演技が窮屈に見えるとの指摘は何回も受けたことがあるし、マスターズでレフェリーが言っていたことにも通じるのだろう。でも、上半身も鍛えることで、転びそうになる局面でもバランスを失わない、あるいは、失ったバランスを取り戻すことができるのだとも考えている。

動画は、1週間ほど前に、左のブレードの位置直しのためにモリコロへ行った時のものである。ブレードの位置調整を今年の初めからやっていたので、「気晴らし程度のスケート」に変わっていたのだが、ブレードを本留めするためにモリコロで滑ってきた。ジャンプとしては決してほめられたものではないが、明らかな回転不足にもかかわらず転ばないのも、ひとつの技術だと思う。採点上のバリューは低いが...でも、ディダクションは免れるだろう...。

ダブルを目指しているが、1回転半もしないうちに落ちてしまう。でも、転ばない。

その理由の多くは、上半身の強さだと考えている。広背筋と大胸筋を締めて軸を右脚に乗せ続けられるので、中途半端で落ちても氷上で回転を続けられ、チェックにもっていける。ジャンプの基準としては良くないのだが、空中で回れない以上は、ここから始めるしかない。自転車のコロのようなものである。違う譬えで言えば、赤ん坊の歩行器みたいなものか....。転んでばかりではイヤになる。怪我をするかもしれない。だから、転ばずに練習を続けたい。せめて、転ぶならば安全に転べるようになりたい。そのために、上半身の筋力強化に腐心してきた。

もしかしたら、その代償が「重苦しい演技」になっているのかもしれないが、それは、それで、解消の努力に取り組んでいけば良い。ルッツのダブルが跳べるのかもしれない!軽い身体で何度も転びながら技術習得していく子供たちとは違うアプローチから、私はこの夢と向き合っている。転ばないこと、怪我をしないこと、その資質を磨くことは、社会人スケーターとしては大切なことだと思う。

それでも、もちろん、転ぶことはある。特に、曲かけの時には、曲に間に合わなくなって焦ってしまい、足がもつれて転ぶことは茶飯事だ。これは格好良くない。でも、曲は更に進んでいく。腐っている時間は全くない。だから、とにかく続けなくてはならない。「転んでもすぐに起き上って続ける姿は、子供達の見本になる」と、ずっと前にある先生から言われたことがある。すごく嬉しいひとことだった。失敗しても下を向かないこと。なにごともなかったかのように続け、リカバリーしていくことの大切さは、フィギュアスケートから学んだ。

失敗しないように、日々のトレーニングを積み重ねていく。

失敗しても、下を向かずに続けていく。

この、不倒、不屈の精神が、私にとってのフィギュアスケートなのかもしれない。そうしていくことで、少しずつわかってきたこともある。昨年のマスターズの演技も、どこが悪かったのか、レフェリーは何を求めていたのか、先生からの指導や自問自答で、理解できることは増えてきた。納得できない部分も多々あるが、それを言い続けるよりも、自分には足りず、他の方々が持っているものを発見するほうが益は多いに決まっている。世の中には不可解なこと、受け容れがたいことは多い。だったら、いつまでも下を向いておらず、前を見て走った方が喜びも多いだろう。次は同じミスをしないためにも....したらしたで仕方ないが....(笑)。

私の演技を観て、親がどんな風に感じるかはわからない。

ただ、転ばずに、転んだとしてもすぐに起き上って、続けられたらと願う。それが、自分らしさだと思う。

※心の整理をつけている時期ですので、コメント欄はなしでご了承下さい。読んで下さる方々の温かいお気持ちを感じつつ、記事を書かせてもらっています。感謝しています。

2011年2月 7日 (月)

西へ

父の病室の廊下からは、西の山々がよく見える。
検査の帰りを待って眺めていたら、AWACSが、燃え始めた空へ飛んでいった。


人も、いつかは、あの様かもしれない。
それまでは、地を這い、山を縫って、走り続けたい。

西へ、氷を求めて。

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