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2010年12月

2010年12月31日 (金)

昨日の朝練習

ダブルトゥループでの無理が少なくなった。

空中での軸の取り方と回転が、わりとナチュラルになったと思う。でも、まだ回転不足。前降りで着氷してからターンしてチェックをとる。

それでも、良いと思う。大人のフィギュアスケートなのだから、じっくり、少しずつ進んでいけば良いだろう。なにより、私自身が納得しているのだし...。うん、ちょっとずつ、上手になっている!着氷後もバランスを崩さずにチェックへもっていけるのも、技術の一つだと思う。もちろん、ジャッジ的には減点対象だろうけど...。

きっかけは、モホークで入ってからRBOに踏み替える時に、両足の位置をきちんと揃えることを、先生から教えて頂いたこと。こういうちょっとした心がけは、本当に大切なのだと感じる。もしかしたら、真央選手のフリップの入りも、そういう指導で両足を揃えてからモホークに入るようにしたのかもしれない。

だけど、忘れたくないのは、氷に乗れない時も、いつでもトレーニングを忘れなかったこと。時間を盗むようにして、陸上でのジャンプ練習、ランニング、そして筋トレも続けていた。社会人なので、決して十分とは言えないが、それでも、自分の生活スペースに「リンク」をつくり、滑れない時間を補っていた。こういう、”氷に飢えている時間”も大事なのかもしれない。そうすれば、氷に乗れた練習時間が、更に充実するようにも感じる。

来年も決して、満足な練習はできないだろう。

でも、頑張っていきたい。試合に出るチャンスもいただけるのかわからない。それでも、何かできるんじゃないかと思っている。

2010年12月27日 (月)

明日の浅田真央

先週行われたNFLの第15週、ピッツバーグ・スティーラーズ対ニューヨーク・ジェッツの試合の第3Q、ジェッツが4thダウンギャンブルに挑むか、フィールドゴールで3点を確保するか、判断が迫られる場面があった。即断を躊躇したレックス・ライアン ヘッドコーチに迫ったのは、背番号17番のブレイロン・エドワーズだった。彼は言った、「コーチ、迷わないで下さい。勝負しましょう。」と。その言葉に押されたのかはわからないが、ヘッドコーチはギャンブルを選択し、QB(クォーターバック)マーク・サンチェスのランでタッチダウンを奪い、結果、7得点を得ることになった。

エドワーズは、直後に「だから言ったでしょ」とヘッドコーチの背中を追いかけ、ハイタッチを交わした。

真央選手が、佐藤コーチに「だから言ったでしょ」と言うかはわからない。おそらく、そういう言葉は出さないだろう。むしろ、12月26日の朝刊に報じられていた、SP演技後の佐藤コーチの話...

「定石としては控えなければいけない。でも、本人の気持ちが盛り上がる方向へやっていかないと」

の中では、やはり、”気持ちが盛り上がる方向へやっていかないと”という言葉を噛み締めるべきだと思う。

私は、佐藤コーチは好きではなかった。これは、私の好き嫌いであり、私の感情である。真央選手のコーチに就かれたことには、喜びを感じずにいるし、グランプリシリーズで苦しむ師弟に複雑な思いを抱いていた。なぜ好きでないかと言えば、上記の言葉の前半部分 ”定石では控えなければいけない”という雰囲気を感じるコーチと思っていたからだ。

何を控えるべきと佐藤コーチが考えているのか?が記されていないが、文脈から推測すると、確率の悪い大技で勝負すること、あるいは選手の直訴を許すこと、のどちらかであろう。でも、そのどちらも、選手を委縮すること、あるいは日々の練習の目的を見失うことにつながると、私は考える。佐藤コーチは「定石」と言われたが、”控えなければいけない”ということは、本当に定石(セオリー)なのだろうか、それで、世界でトップに立つ選手を育成できるのだろうか?と、私は強く疑問を抱く。

例えば、4Sを回避した安藤選手、冒頭のアクセルを2Aにした中野選手、彼女達が佐藤コーチの元で幸せな結果を得たのか、私は疑問を頂いている。もちろん、モロゾフにしても、安藤選手の冒険には自制を求めることがあった。確率の悪い冒険を許すことが良いコーチの条件とは思わない。でも、結果、安藤選手は4Sを「諦める」ことになったのだと思う。もしかしたら、4S復活のチャンスを今でも待っているのかもしれない。でも、それが彼女の勝利の切り札と考える人は、競技に身を置く側でも、ファンでも、今は少ないだろう。

真央選手にとっての3Aは、全然違う。

彼女が勝つためには、トリプルアクセルを外すことはできないだろう。確かに、2007年のスケートカナダでのFSは冒頭のアクセルをダブルにして優勝した。でも、彼女がトリプルアクセルを回避したのは、アルトゥニアンから助走前にブラケットを要求されていたこの大会だけではないかと記憶している。特に、ルッツでの加点やセカンドジャンプをトリプルにすることが望めないとしたら、トリプルアクセルを躊躇する余裕が彼女にはあるのだろうか?

私個人の想いだが、彼女には、アクセルをダブルにする選択肢はなかったと思う。もしも、確度が低いからと言って、冒頭のジャンプをダブルアクセルにし、あるいは無難な演技にまとめたとしても、全日本の表彰台は臨めなかったのではないだろうか?安全策を講じて大会によってアクセルをダブルにしたり、トリプルに挑んだりした中野友加里さんの選手時代を彷彿とさせるような、そんな浅田真央を、私は観たくない!

結局、真央選手の熱意に押される形で、佐藤コーチは3AをSPに入れることを認め、結果は良い方に転んだのだと思う。この結果は、選手を称賛すべきであると私は考える。もちろん、選手の気持ちを重んじた佐藤コーチのコーチングは認めるべきであろう。でも、もしも真央選手がもう少し大人しい選手だったら、コーチの指示に従ってトリプルアクセルにそれほど拘りを持たない選手だったら...彼女は世界選手権の切符を得ていただろうか?

この手の「もしも」は無意味であるが...トリプルアクセルに拘りを持っていない浅田真央などいないことを考えても...私は、佐藤コーチの言う「定石」には、強い疑問を持っている。むしろ、それは、”表彰台にあと少し”の結果までこぎつけることのできる選手にあてはまる、それではないのだろうか?オリンピックで3度の3Aを成功させ、ギネスブックにも掲載された銀メダリストにとっても、それが「定石」であったのか? なぜ、”Go!”と勝負前に言い切れなかったのか? 結局は選手が決めざるを得ない状況を作ってしまったのか? ファンとしては収まりきれない感情を抱いている。

真央選手について、テレビでは「完全復活」と言っていた。私は、それにも疑問を抱く。

彼女は復活していない。二つの理由で、私はそう考える。

ひとつは...そもそも、フィギュアスケートにおいて「復活」とは、何を意味するのか?という疑問を持つからである。彼女はスランプに陥っていたのか?そこから復調したから「復活」なのか?そうではないだろう。 彼女は、自分のジャンプをいぢった。だから跳べなくなった。それが、試合で戻せた。いわば、自ら播いた種を刈り取ることができた、それだけである。理由がわからず不調に陥ったとか、どうしても勝てない強敵と互角に戦えたという訳ではない。フォームをいぢったために陥った不調から、ある程度の目処がついただけである。

谷底から這い上がった選手に「復活」と讃えることはできるだろうが、自ら掘った穴から出ただけの選手に「復活」と言っても良いものだろうか?

もうひとつの理由は、彼女が今後もジャンプを成功させる保証があるとは、私には思えないからである。私は、真央選手のファンである(と思う)。だから、今回の結果も信じていた。佐藤コーチには批判的な思いを抱くし、今シーズンの真央選手のジャンプ矯正の取り組みも必要がないと考えている。もちろん、改善は大切である。でも、フォームの根本から直し、グランプリシリーズを棒に振り、あまつさえ、全日本での代表権獲得さえも危うくするほどの危険を冒してまで、ジャンプをいぢるべきであったのだろうか?その決断が真央選手からとしても、私はやはり疑問を禁じ得ない。もっとも、その疑問が愚問になるくらいに、良い結果になることも祈ってはいるのだが...。

全日本選手権で観ることのできた、真央選手のジャンプ改良は、フリップの入りのモホークをオープンからクローズドにしたのが主だろう。FSでは、ジャパンオープンではオープンモホークで入っていたのだが、NHK杯以降はクローズドにしている。バンクーバーまではオープンモホークからフリップに入っていたこと、佐藤コーチが9月に就任したことを考えると、クローズドへの変更は佐藤コーチの意向が反映されているのではないかと、私は想像する(真偽はわかりませんが)。

以前のエントリーでも記したが、彼女がトゥジャンプに入る時には、トゥを突くためにフリーレッグを上げるのにつられて上体が前につんのめってしまう。オープンモホークではその傾向が顕著なため、RFIからLBIへの移動距離が短くすむクローズドに変更したのではないかと推測する。で、全日本でのフリップ踏み切りの姿勢を観ると、腰から背中がしなやかに反って上体が起きたままトゥを突いている。この背中の反りを最大限に生かしているのが、キム・ヨナのトゥジャンプと私は考えているのだが、真央選手のトゥの突き方もこれに近づきつつあるのではないかと思う。

グランプリシリーズでのジャンプの不調は、あるいは、入りのモホークを変えたためのタイミングのくるいだったのかもしれない。で、クローズドからも3Fが跳べるようになったので、全日本で目処がついたと言えるのかもしれない。その意味では、佐藤コーチの指導は結果を出しているのではないだろうか。

でも、それで「完全復活」と言えるのだろうか?

そもそも、なぜ、モホークの種類を変える必要があったのだろうか?NHKの番組でのインタビューで、佐藤コーチは、ジャンプ前の踏み込みで減速することが、空中での回転速度低下の原因であると言われていた。もしも、フリップの入り方を変更しているとしたら、それは、この「速度低下」に関係のあることなのだろう。

でも、私には、やはり疑問がある。ジャンプ前に踏み込んだら、本当に、踏み切り速度は減るものなのだろうか?フィギュアスケートに取り組んでいると言っても、ど素人にすぎない私ではあるが、このブログでは敢えて疑問を記させて頂いている。だから、記すのだが、荷重すれば加速するのがスケートではないだろうか?踏み込めば、足が氷を押した分だけスピードは増すのではないだろうか?私自身は、例えばバックインサークル、あるいはトゥジャンプの踏み切りで、そのように感じている。しっかり踏み込めば応えてくれるのが氷であり、エッジである。それが、フィギュアスケートというものではないだろうか?

この疑問を抱くゆえに、状況の区別が必要とも考えている。「踏み込むと減速する」という場合の”踏み込み”とは、スケーティングレッグに重心をより強く置くことなのだろうか?だとしたら、むしろ加速するのでは?というのが、私の疑問である。

そうではなく、”踏み込み”と言っているのは、トゥに荷重がかかってしまい、トゥで氷を削っている状態ではないだろうか?これならブレーキがかかることは、私にも身に覚えがある。それで、先生から注意されることは茶飯事である。「普段から意識しないと治りません」と怒られるのだが....。真央選手の苦労と私の粗末な体験をいっしょくたにするのは愚かしいことかもしれないが、真央選手のフリップを何度も見返すと、やはり氷を削りながらトゥを突いているように見える。これは、何度も記すのだが、フリーレッグを突く時に前へつんのめってしまう姿勢に原因があるのであろう。

もしも、モホークをクローズドにすることで、トゥを突く姿勢が改善されるのであれば、おそらくは、トゥで氷を削ることもないだろうから、それによるブレーキの減少にも光明が見えると思う。私自身は、真央選手のオープンモホークが好きなので、クローズドに替えたのは面白くないのだが、それでも、この変更が吉と出ることは、素直に祈りたい。

同時に、氷を削ることなく踏み込めるようになったのなら、きっと助走スピードも上がるのではないだろうか。それも期待したい。

しかし、助走スピードがあがった分、空中で軸を締めきれずに2回転以下のジャンプで降りざるを得ない現象(ポップ、あるいはパンク)も増えるかもしれない。真央選手の一番の課題は、踏み切り後の軸の形成に難があることだと思うからである。軸の形成は上手との定評があると思うのだが、課題も多いと私は考えている。軸の形成の上手さは、フリップで突いた右足トゥで蹴り上げる力(ウェイト)が大きいので、そのまま空中で右軸を形成できるからだと思う。彼女のルッツやフリップの踏み切りは、右トゥでの荷重が他選手達よりも大きいと私は考えているのだが、どうなのだろうか?もしそうならば、同様に右足で身体を押し上げていくループは得意だが、左トゥを突く(=左足で押し上げる)トゥループやLBIで上がるサルコウはあまり得意でないという理由にも合点がいきそうな気がするのだが...。

とにかく、右軸形成が上手なのは彼女の強さだと思うのだが、それだけでは回転はしない。回転のためには、両腕を引き寄せてタイトな軸を形成する必要がある。NHKの番組で、4年前のNHK杯でのフリップと昨年のバンクーバーでのフリップを並べてスロー再生した部分があったのだが、バンクーバーでは、1回転後に腕をクロスしていた。これは、身体が空中へ放り出されて半回転する間にクロスしている4年前のジャンプに比べて、遅くなっていると私は観ている。

もしも、彼女のジャンプに改善が必要だとしたら、踏み切り後の両腕の引き付けを素早くすることではないだろうか。それが、回転速度の増加につながると思う。

もちろん、踏み切り時の滑走速度が速くなれば回転速度も増すと思うが、増速に対応した腕の動きができなければ、軸を締めきれずに途中で降りざるを得ないケースは今後も増えるのではないだろうか。この点については、夜明けはまだまだ遠いと思うのだが...。

腕やそれを支える胸の筋肉の強化ということでは、彼女の筋トレの様子の報道で、ダンベルフライの映像が流れていた。おそらくは、ジャンプ時の腕の引き付けの改善を狙ったものだと思う。もっとも、大胸筋はスケーティング姿勢の安定やターン後の慣性の吸収にも必要なので、ジャンプだけが目的ではないかもしれないが...。でも、踏み切り直後に素早く引き付ける動作を磨くうえでは、フリーウェイトでのトレーニングが有効なのか?これにも疑問を持ってしまう。

まとめると、フリップの入りのモホークを変えることで、おそらくは、光明を見出せたのだと思う。でも、それが彼女の課題の本筋とは、私には思えない。両腕の動作の課題を克服できなければ、踏み切りスピードの増速に空中で対応しきれなくなるのではないだろうか?ということである。そもそも、彼女のジャンプ見直しの目的はなんだったのだろうか?私は、ジャッジから加点を多くもらえるジャンプにしたいからだと報道されていたと記憶している。その意味で、全日本は、目的を果たすことができたのだろうか?

私は、浅田真央選手がどのような成績になっても、応援していくと思う。気持ちが萎えたり、くじけそうになることはあると思うが、それでも、見守り、応援の気持ちは持ち続けるであろう。でも、この全日本の結果が「完全復活」とは思えないし、まだまだ、霧の中にあるのではないかと感じている。その霧が晴れるのは、佐藤コーチの口からでなく、選手自身の口から課題と解決の目処が語られる時ではないかと考えている。

もしも、その課題が解決困難だとしても、「今の自分には、こんなに沢山の課題があります。それに、今は取り組んでいます」と語れるならば、復活の日は近いだろう。というか、その時こそ、「再生」浅田真央と言えるのではないだろうか? 

2010年12月24日 (金)

ベリチックだったら....

全日本の真央選手に想うこと....。

全力を尽くしてほしい。結果を信じてます。ただ...コーチを間違えたと思う。

日本には、不調に陥った選手を再生するコーチはいないのでは?

やはり、折りをみて長久保コーチを訪れた荒川さん、門奈コーチとオフを過ごした安藤選手のように、幼少期の自分を知り、自分を世界へと羽ばたかせてくれたコーチを訪ねた方が良かったのではないかと思うのです。

それでも、世界で戦うには、それ専門のコーチのもとへ行くべきでしょう。

荒川さんが、あるいは安藤選手が、再生を期してモロゾフの門を叩いたように。

NFLなら、ビル・ベリチックという素晴らしいHCがいて、ペイトリオッツは快進撃を続けている!! もっとも、ランディ・モスのように、再生後に放り出された選手も多いが...。でも、ウッドヘッドの今年の快走を観ると、「ベリチックのようなコーチが真央選手についていればなぁ」と思わずにはいられない。

勝負前に、3Aを跳ぶか回避させるか、そんな悩みを持たせるコーチは、ダメでしょう。きっと(涙)。もし、良い結果になったら、その時にはコーチでなく、選手を称賛すると思います。すみません。

フィギュアの想い、和菓子の思い

今日から始まるフィギュアスケートの全日本選手権。

いつもだったら臨戦態勢で過ごすのだが、今年はノリが悪い。2年前まではほとんど毎年観戦に行ったのだが、そういう気持ちは全然なかったし、中継も夜勤があるからリアルタイムではダメ。「フィギュアスケートは演るスポーツであり、観るスポーツではない」が、自分のスタンスになりつつある。もちろん、フィギュア観戦には様々な素晴らしさがあるのだが、それについて理屈でイチイチ考えなければ気持ちが萎えてしまうほど、心は離れつつある。

そんな中で考えたことなのだが...観るスポーツとしてのフィギュアを語れば、それは和菓子のようなもの。

各選手の演技がこぢんまりとした世界を造る。タイトルと音楽と衣装とでその世界を認識し、構成する技術に堪能するもの。フィギュアスケートの技術そのものは、どのプログラムでも変わり映えはない。もちろん、選手によって技巧の優劣はつくだろうけど、大きな違いはない。つまり、クラシックバレエとロマンティックバレエ、あるいはコンテンポラリーとの差ほどのバリエーションは、フィギュアスケートにはないのである。

それは、餡を何かで包むという、和菓子のシンプルさに通じるように思う。もちろん、和菓子にも、熟練の職人技が随所にあるが、それは本質ではないだろう。あんなに可愛らしく、単純な造りの中に広がる美味しさや幸福感、それが真髄ではないだろうか。

この間、雑誌の和菓子特集を妻と見ていて笑い合ったのだが、虎屋の”紅うさぎ”という生菓子(画像はこちらです)のどこが兎なのだろう?と思った。でも、兎なのだ。もちろん、白い氷餅がウサギの白さを表し、紅餡(求肥でくるまれているらしい)の赤みはウサギの象徴である、眼の色なのかもしれない。しかし、それ以上に、てのひらにちょこんと乗る可愛らしさ、丸みと温かみ、そういったこの菓子全体から感じられる生命感が、銘を銘たらしめているのでは、と感じる。

フィギュアスケートの演技も、同じなのだと考える。正直、音楽のタイトルと衣装を観なければ、選手達が何を表現しているのか私にはわからない。海賊風の衣装だから”パイレーツ・オブ・カリビアン”か、赤を基調にして黒が混ざるからスペイン風なのか、あるいは白一色ならば”白鳥の湖”など「白いバレエ(バレエ・ブラン)」を意識しているのかとわかる程度である。最近で言えば、村娘の衣装風なのでジゼルなのかとか....(ため息)。思えば、私がフィギュアスケートから気持ちが離れ始めたのは、中野さんのジゼルを観てからかもしれない。あれは、ジゼルではない。絶対に!

選手の繰り出す技術の中身は、どれも似たり寄ったりである。採点の基準となるエレメンツが予め決められているのだから、当然なのだが...。それでも、音楽と衣装とタイトルとを反映させるような踊りを、冒頭や終盤、あるいはエレメンツの間に盛り込むことで、世界を造り出そうと努力されている。でも、それはあまりに可愛らしく、小さな世界なのかもしれない。

60m×30mの広大なスペースをたった一人で、高速に疾走する激しいスポーツではあるが、それゆえに、踊りだけを観れば、非常に制約された表現しかできない勝負だなぁと、つくづく感じる。最初のポーズや滑走を始める前の数秒、あるいは滑走中のシャッセや腕の振り、エンディングのスピン後のポーズ、表現を際立たせられるのは、そのくらいではないだろうか?でも、この制約が、あるいは、フィギュアスケートの真髄なのかもしれない。制約のもとで、表現したいことを明確に表現しようとする潔さ、それを強く持つ選手が、あるいは、同じようなステップをしても全く別ものに、ルールに則った回転数のスピンコンビネーションをしても音楽の表現とマッチしたものに、つまり、そのタイトル通りの演技にしか見えないようになるのかもしれない。もちろん、音楽の力をおおいに借りているのだろうけど、それでも、演技者の想うことが観客に伝わる余地が、少し、また少しと拡がっていくことも、確かだと信じている。

そういう、制約された意匠を越えた「存在」や「意志(造り手の思い)」が大切なのでは? という意味で、フィギュアスケートの演技は、和菓子に似ていると感じるのである。

クリスマスである。今年は、明日の朝練には参加するが、イブは静かに過ごしたいと思う。ケーキの予定もあるし、クラブの子供達には、手製のキャラメルをプレゼントする予定でもある。でも、今年の発見でもある、和菓子の可愛らしさ、軽やかながらも重厚な香りを思い浮かべる日々でもありたいと願っている。

2010年12月 1日 (水)

人は5年前に戻れるか?

フランス杯の報道で、真央選手が2005年の頃のジャンプに戻したいという気持ちであることを知り、ちょっと困惑している。もう5年も前の話なのに。

でも、無理だと思う。時計を逆回りさせることができないのと同じように、身体を子供にすることも、環境を元通りにすることもできないだろう。もしも、彼女が本気で戻したいのなら、真っ先に勧めたいのは、オーロラリンクで滑ることを止めることだ。

一人貸し切りのだだ広いリンクでの恵まれた練習。

そこで培われたものは多いだろう。「へたくそな部分も多いけど」と、5年前の自分について言っていたが、下手だった真央ちゃんが上達した部分は、恵まれた環境で練習できたおかげなのかもしれない。でも、ジャンプは別物だと思う。日本のジャンパーの系譜は、町のリンク育ちという線でまとめることができる。混雑した人ごみを縫うように滑りぬけ、一瞬の隙間を見つけてそこで跳ぶ。次から次へと滑ってくる人達がいるので、転ぶことが許されない緊張感の中で培った芯の強さが、日本のジャンパー達にはあったのではないだろうか。

もう少し専門的に言えば、運動能力の一つである、「調整力」の高さであろう。

厳しい局面、不安定な状況、瞬時に変わる場面、そういう「難しいところ」を切り抜けるために必要な判断力やバランス保持能力、そういうのが調整力であり、フィギュアスケートでも必要とされる力であると、私は考えている。ところが、環境が恵まれすぎていると、なかなかこういう力は育たない。

もちろん、恵まれた環境だからこそ培われる能力も沢山あるだろう。いわゆる「表現力」は、その最右翼かもしれない。美しいスケーティングを磨くためにも、整った氷で納得のいくまで滑りこむことは大事だと思う。でも、恵まれた環境では、「難しい局面」を切り抜ける力は育たない。山内鹿之助が、「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという話があるし、”艱難汝を玉にす”という諺もある。厳しいからこそ、敢えて言えば、恵まれていないからこそ、磨かれる技術もあるはずである。

だから、思う。5年前には戻せない。もう、大須では滑れないでしょ?>真央ちゃん。

確かに、あの頃の彼女は凄かった。私ももう大須では滑ってないが、真央選手がきまって3Rを練習していた場所のことは、まだ覚えている。彼女が跳ぶ時、そこは彼女だけのリンクだった。空いているスペースに飛び込むのではなく、彼女自身が、空間を開けてしまう、他の人達が入り混むことを許さない場所を、彼女自身が創っていた、そんな感じだったと思う。今だから告白するが、滑り始めたばかりの自分が一番心配していたのは、彼女に怪我をさせてしまうことだった。例えば、着氷に突っ込んでいってしまうとか、あるいは、自分の転倒に彼女を巻き込んでしまうとか...世界ジュニアのチャンピオンを怪我させてはいけない...そのことは、いつも肝に銘じて練習していた。

でも、今から思えば、本当に笑い話である。たとえどんなに混雑していたとしても、素人スケーターが入りこめるような余地なんて、彼女の周囲にあるはずはなかっただろう。もしも真央さんの前で派手に転んだとしても、きっとスっと避けながら後ろを振り返り、「あの人大丈夫かしら...」と心配されるのがオチだったろう。安藤選手にしても、そうだった。同じリンクでありながら、全く違う世界で滑っているのが、トップスケーターという人種なのだと、今になって思う。

でも、今の真央選手はどうなのだろうか....。非公開の一人貸し切りの練習場所で、もちろん上達された部分も多いだろう。玉へと磨かれる機会を、幾度となく繰り返してきただろう。でも、ジャンプについてはどうなのだろうか?「これじゃぁ練習にならない」と恨めしそうにリンクを眺めながらも、跳ぶ機会を狙っていたあの頃の気持ちを、忘れてしまったのではないだろうか?大人達が空間を守ってくれるから、自ら空間を創る力を、失ってはいないだろうか?

技術的なことを言えば、今は最悪だと私はみている。

トゥを突く前にフリーレッグを振り上げるが、その時に前傾姿勢になってスケーティングレッグがバックエッジではなく、トゥで氷を削っている。ジャンプ前のブレーキは、心理的機制ではなく、片足を上げると前につんのめってしまう、という、極めて初歩的な理由だと思う。

着氷時の不安定さは、離氷の前から回転を始め、トゥを突いた(フリップやルッツでは)右足も踏み切り荷重に、しかも半時計回りに捻りながら使っているので、まだ氷に着いているスケーティングレッグ(=左足)が残され、既に軸になっている右脚に巻きついてしまっているからだろう。いわゆるトゥアクセルの踏み切りで全てのトゥジャンプを跳ぶので、左脚が緩んでいるのだ。だから、着氷時の左脚の処理(前に出してから後ろへ回してチェックをとる)ができずに右足と心中する転倒が多いのだと思う。フランス杯フリーでのルッツの失敗が顕著な例ではないだろうか。単なるツーフットではなく、着氷後にLBIで滑り、困惑したかのようにRBOに踏み直してチェックをしていた。回転が足りずにツーフットで降りてしまったことより、本来ならば左足を前に出すべきなのに、右足を後ろに引っ込めて左で滑らざるを得なかったことこそ、彼女の根本的な問題を示していると思う。

佐藤コーチは、どう考えていらっしゃるのだろうか?

報道で見た時には、シングルジャンプから、彼女はトゥアクセルで跳んでいた。その時の彼女を眺めていたのは、長久保コーチだったのだが。全ての元凶は、そこにあるのではないだろうか?ルッツやフリップをスケーティングレッグではなく、トゥを突いた足のブレード一杯を使って送り出すような踏み切りをしている限り、左足は遊んだままだろう。彼女は巻き足のジャンパーではないが、空中姿勢をスローモーションで見返すと、左足が遊んでいるように見える。

遊んでいると言えば、踏切時の両腕もそうである。助走の段階では、意図した方向に伸ばしている左右の腕が、踏み切りの時には緊張感を失ってしまう。下から上へとすくい上げるように腕を使っているというよりも、ジャンプに意識がいくあまり、肘に緊張感を保つのがお留守になっているという感じに見えるのだが....。

結局のところ、片脚を挙げればつんのめる、踏み切るべき足とは反対の足で跳んでいる、両腕と左脚が遊んでいる、そんな感じだろうか。

でも、それが浅田真央だとしても、本来なら、それほど悲観することはないと思う。

エッジエラーやトゥアクセルは元々の癖だっただろう。トゥを突く前に削ってしまう癖については知らないが、真央選手ならあっても不思議はないと思う。それでも跳べてしまう、空中で3回回ってしまったのが、浅田真央ではなかったのか?そこに、フィギュアスケートの魅力と可能性があると、私は信じている。

教科書のように、癖のない、端正なジャンプフォームが良いのか?それで跳ぶ1回転と、癖だらけで美しくない3回転と、どちらにバリューを与えるべきなのだろうか?これは、フィギュアスケートの究極の問いなのではないだろうか?

もちろん、端正な3回転なら理想であり、愛されるのかもしれない。

でも、5年前の浅田真央が目指していたのは、4回転ループであった。端正な3回転と、不格好な4回転のどちらにバリューを与えるべきか?常に彼女は、この問いを私達に突きつけていたのかもしれない。

「上手になりましたね。」と、5年前に私は彼女から言われた。フォア滑走でウォームアップ中の浅田真央の前で、バックのクロスロールをしていた時のことだった。彼女の支配する領域に、私が最も接近した時間だったと思う。でも、あの時のクロスロールより、今の私はもっと正確に滑ることができる。それでも、上手になったとは、思えない。

上手とか下手とか、それとは別の次元で人は勝負しているのかもしれない。浅田真央選手にしても、5年前も今でも、相変わらず下手くそなのかもしれない。私が言うのはおこがましいことは、重々承知の上だが。でも、それでも、真央選手は、あの頃でもトリプルアクセルを跳んでいた。軽々と、トリプルジャンプをこなしていた。上手とか下手とかではなく、彼女がジャンプを支配していたのだと私は考えている。

これは、いわゆる「精神的なもの」というのではない。メンタルではなく、純粋にフィジカルな問題である。要するに、「調整力」の問題であろう。ジャンプという困難な課題に直面した時に、どうすれば、的確にその課題をクリアできるか、適切な判断を下し、その判断通りに身体を制御する力、それがあれば、たとえ不格好でも、跳べてしまうし降りれてしまう。でも、それができなければ、跳べるジャンプも跳べないのかもしれない。

今、彼女に突きつけられている問いは、「どうすれば、自分のジャンプを自分でコントロールできるのか?」であろう。5年前なら、練習し続ければ軽々と跳べていた。でも、身体の成長と共に、思うように跳べなくなったのかもしれない。悩みを感じ、もしかしたら、壁にあたっているのかもしれない。

だから、以前のように、軽々と跳べるようになりたい。

そんな感じなのだろうか....(あまり自信がないが)。自信を持って言えるのは、いかなる悩みであろうと、成長に伴う悩みは進歩の証である、ということである。昔のように跳べなくなったなら、それは再び跳べる以上の何かを掴むためのチャンスであろう。

"There is light becouse there is darkness"And,of all people,the person who has emerged from the darkness appreciates the blessing of light.

「闇があるから光がある」そして闇から出てきた人こそ、一番本当に光のありがたさがわかるんだ。

小林多喜二の言葉である。妻に勧められて視聴した、”ギフト”というNHK教育の番組で紹介されていた。跳べなくなったからこそ、跳べることの嬉しさ・手応えを実感できるチャンスなのではないだろうか?私が中京大学の大学院で学習していたテーマは、”メタ認知”に関することであった。要するに、自分のものとして獲得できた知識や知覚についてである。ただ「なんとなく」ではなく、確たる実感として言葉で語れる感覚、のことなのだ。その領域で語るのなら、ジャンプのメタ認知化が真央選手には求められているのだと信じている。そのメタ化の先には、今までにない明るい光が、彼女を待っているのかもしれない。それが黄金色なのかどうかはわからないが。

真央選手は上手になった。本当に、驚くほど美しい演技をするようになった。だけど、ジャンプはあまり綺麗でないし、上手とも思えない。でも、それでも、ジャンプが得意であったし、そのことに自信を持っていたから、試合に勝ち続けられたのではないだろうか?

なぜ、彼女はジャンプが得意であったのか?きっと、ジャンプに飢えていたからだろう。思いっきり跳ぶ機会がそうそうない環境。踏切前にブレーキをかけていたら、すぐに人が邪魔してしまうような狭いリンク、その中で、一生懸命スペースを創ってきた努力が、彼女を玉としたのだと、私は考えている。あの時の彼女は、ジャンプを支配していたのであろう。

もしも、今は満ち足りてお腹一杯だったら、どうすれば良いのだろうか?成長した身体を持て余し、コントロールできず、空間を支配する力も失ったとしたら、どうなのだろうか。

そういう時には、落ち着いて、ひとつひとつを見直していけば良いと思う。

それは、シングルジャンプから始めるということではない。

動作のひとつひとつを分解し、無駄な動きや無理なところはないか、慎重にチェックすることである。自分の「下手な部分」を見つけることとも言える。そこに磨きをかけていけば、また、跳びたい気持ちが湧きあがり、どうすれば跳べるのかが判ってくると思うのだが....。これは、「下手」から「上手」になるというものではない。「下手」を判るということなのだ。

そういえば、ギフトには、次のような言葉も紹介されていた。

Courage is resistance to fear,masterv of fear
-not absence of fear.

勇気とは、恐れに抵抗すること、恐れを支配することであって、恐れがないことではない。

マーク・トゥエインの言葉だそうだ。この言葉を借りて、「勇気」を”技術”に、「恐れ」を”問題”に置き換えても意味は通ると、私は考える。問題が多いことが問題なのではない。問題が無くなれば技術が高いというものでもないだろう。大切なのは、課題に立ちはだかる問題を認め、その克服を包み込むようにして課題達成の思いを強めることではないだろうか。その努力を通して、人は技術を高めているのだと、私は考えている。

彼女が3回転を跳べていたのは事実だし、今でも跳べるであろう。ただ、課題を果たす上での問題への認識と克服の力(これも広い意味では「調整力」なのかもしれない)が、今は足りないだけなのだろう。フォームやスケーティングの改善は、もちろん課題達成の道筋であるが、それが課題達成を保証するとは言い難い。結局は、本人自身の感覚であり、自分の心身をコントロールができるかが、鍵だと私は考えている。彼女自身の戦いであろう。

そういう意味では、コーチが教え、練習内容を決めている間は、課題達成は無理なのかもしれない。選手本人が気付き、見つけなければ、知識や感覚のメタ化は難しい。気付きの産婆が、本人自身の苦闘であり、煩悶であるとするなら、コーチに頼っていてはダメなのかもしれない。スポーツの難しい部分とも考えられる(安藤選手の今年の成長は、ここにあるのかもしれないが...)。

だから、真央選手には言いたい。「諦めて下さい」と。5年前の自分には戻れないし、5年前は今以上に下手くそだったのではないでしょうか?と。ジャンプにしても。ただ、今は持っていない力を、あの頃には持っていた。でも、もう戻せない。だったら、別の力を得るしかないでしょう。大人なら、大人の知恵で勝負してみませんか?

ジークフリートの強さの秘密は、恐怖を知らないことだったと記憶している。怖いもの知らずの時代は、手がつけられないほどに活躍することは、スポーツの場合、よくあると思う。では、怖さを知ってしまったら、弱くなってしまうのだろうか?「そんなことないです!」と、きっと真央選手は言ってくれると思う。数多くの大舞台、大変な局面を経験した真央選手は、怖さを知った大人でも戦えることを証明してくれているだろう。同じように、一度失った感覚を再獲得することも可能であることを、きっと彼女はわかってくれると思う。「なんとなく」ではなく、実感として、どうすれば跳べるのか、言葉にできないとしても、もっと確かな形で、私達に示す日がくると信じている。

先にも記したとおり、技術的な理屈で言えば、彼女には問題が多い。

でも、理想的なフォームを観に観客はアリーナに集まるのではない。「跳びたい!」という思いが現実になる瞬間を目撃したいからなのだろう。2005年のGPF、私も代々木に観に行った。なぜ、彼女が跳べるのか、全然わからなかった。ただ、知っていたのは、彼女は跳ぶたびに嬉しそうだった。それだけだった。

もう一度、跳べる自分に出会ってほしい。

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