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2010年11月

2010年11月 9日 (火)

空に向かって

「どうして、あんな重いものが?」と、誰でも思うだろう

それでも、彼は跳んでいく。

翼をいっぱいに拡げ、飛行機は空に向かって飛んでいく。

沈みもせず、舞い上がりもせず、

自分をしっかり保ち、揚力を増して、突きぬける!

「がんばれ!!」と空に向かって叫ぶ

心の中で、呼びかける。

2010年11月 8日 (月)

神学論争はいつまで?

約束なので、「親父の目」へのコメントのリアクションをここに記します。もっとも、自分としては穏やかにコメントしたつもりですが...。

「試合では公正かつ妥当なジャッジングが実現しているのか?」というファンの間での議論は、神学論争の体をなしている気がする。いつまで、人はそれを追い求めていくのだろうか?

びっくりする話だが....キリストが死んでから2000年も経つという現代になっても、神学は存在し続けている。例えば、カール・バルトとかラインホルト・ニーバー(彼の祈り~確かクリスマスの時のだったと記憶している~は、山崎直子さんの支えになったというので有名になった)とか、バルトの論敵であったエミール・ブルンナーといった巨人と呼ばれる学者たちも、前世紀には存在していたし、今でもそういう人達はいるのだろう。でも、私には、ピンとこなかった。彼らの前提は神のキリストによる救済であり、議論の根拠は聖書とそれを礎とする教会である。それらの正統性を私は信じないので、彼らの議論に私は加われないのである。

それでも記すが、ニーバーの祈りに対しての私の見解は、次の通りである。

「変えるべきもの」が変わらず、「変えられない」ものが無理にでも変えられていくのが、世の常ではないだろうか?

冷静さ(serenity)を求めるのなら、そういう世の常すらも、神の恩寵であると認めることのできる見識を得てからにした方が良いと思う。「変える”べき”もの」や「変えることの”できない”もの」など、この世に存在するのだろうか?もしあったとしても、それらを見極められるようになって、一体何になるのだろう...?  いや、マジで。

変わっていくものは変わっていくし、変わらないものは今のところは変わってない、ブラウニングの言葉を借りれば”すべて世は事も無し”ではないのか?

似たようなことを、フィギュアスケートにも感じる。

こちらは、不変か流転か?という問題ではなく、検証可能か否か?という問いについてなのだが...。強いて言えば、自然神学論争のようなものか...(笑)。

私自身も、競技におけるジャッジングの公正さを信じてはいるが、果たしてその思いが正しいかどうかについては、検証はできないのではないだろうか?親父さんのところで、ジャンプのエッジエラーの見落としがあったのではないかという指摘があり、それに私はコメントした。コメントの内容は、技術的な事柄についての自分の(可能な限りの)知識であったが。

でも、それを記しながら感じていたことは、「前提があやふやなままでの議論は神学論争にすぎないのでは?」という気持ちであった。

もちろん、コメントの中には”神”の一字も記さなかった。でも、モホークの種類、ジャンプの踏み切り方、それらの基礎的な知識を踏まえないままに、ある選手のジャンプの入りはおかしく、それを見逃すジャッジングはどうなのか?というような論じ方は、”前提を省いた無理な議論”という意味で、神学論争に近いと私は感じるのである。

神の存在が検証不可能(バルトの立場による)であり、信仰によって明らかにされるしかないのと同じくらい、ジャッジングの是非も信じる他はないと、私は考えている。レフェリーやジャッジは、フィギュアスケートにおいては神官のようなものなのかもしれない。この競技の秩序を保ち、善き方向に導いて下さるためには、本当に必要な存在だと私は思うし、その見識と良識を信じるしかない。

もちろん、神聖かつ不可侵な存在とまでは、さすがに思わないし、ブルンナーのように自明な事柄と考える立場もあるかもしれない。なので、興味のある方々は、ジャッジングの是非をチェックすることも可能とも考えられる。でも、そのためには、検証に必要な知識や経験を意識してからにした方が良いと思う。

そうでなければ、神学論争は、いつまでたっても止まないのかもしれない。

ついでに記すが...「ジャンプの着氷はブレード全体で」などと教えているリンクは、日本にはないと思う。私自身は、複数の先生方から、「トゥから降りるように」と教わった。もしも、違う立場の先生がいらしゃったとしても、きっと、「(右利きの場合は)RBOエッジで」と教えられると思う。ブレード全体(=フォアエッジも含めて)では、踵に衝撃がダイレクトに伝わり、アキレス腱を切ってしまうかもしれない。

神学論争が、異端審問や魔女裁判といった黒歴史の様相を呈さないことだけは、切に願う。

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