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2010年8月

2010年8月19日 (木)

美学のないフィギュアスケートに魅力は感じない

共感して下さる方々がいらっしゃると嬉しいのだが...。

バンクーバーとトリノ世界選手権を終えて、ある種の虚無感に襲われてしまっている。

キム・ヨナの点数についてなのだが、彼女の演技は素晴らしいとしても、他の選手との相対的な優劣が測れないような出方にとまどいを禁じえない、実は...。採点のシートを詳細に検討し、ジャッジの意見を聞く機会があるなら、あるいは納得もできるのかもしれない。でも、そこまで熱心に理由を問うほどには、私はフィギュアスケートにエネルギーを費やす気はない。

「ジャッジがヨナが好きっていうなら、それでいいんじゃないの?」

というのが、率直な思いである。ジャッジング批判について激しく怒ったエントリーを過去に出したが、それでも、そんな思いでいる。結局、私もジャッジを信じていないのかもしれない。

ただ、言い訳がましいのかもしれないが、私はジャッジが恣意的に採点を操作しているとは考えていない。「操作していない」とも言わないが、正直、私にとってはどうでも良いことなのである。なんとなく思うのは、ある種のトレンド...というか、ジャッジ達の間で”イチ押し”という流れがあり、それに乗った選手が高く評価されるというのは、感じるものがある。根拠は全然ないが。

で、今までのトレンドは、「賢く勝つ」というものだったのだろう。ルールから勝利の方程式を一番上手に導き出し、その方程式を試合で忠実に披露できた選手が一等賞になれる。バンクーバーの勝者は、おそらく、そんな感じだったのかな、と考えている。

でも、その流れに批判が向いてきたので、今季からは、「難しく勝つ」というのになるのかもしれない。高難度のジャンプの基礎点アップ、回転不足への救済など、難しいジャンプへの誘因がルールに盛り込まれている。

それで、なんだか嫌になってしまった。こういう、年度ごとに変更されるルール、気が付いたら、私のような人種には、ある種のアレルギーができているのだ。そのアレルゲンは、「政策誘導」という業界用語である。

厚労省が思い描くビジョンに末端が従うように、医療保険や介護保険などの制度は常に変更される。そこには、保険点数の加減や補助金の導入など、言葉は悪いが...末端が食いつくようなエサが仕込まれている。私のような、末端組織の更に一番の下っ端なら悩む必要がないのだが、組織のトップは、そのエサを狙うべきか、それとも見送るべきか、その決断が組織の浮沈・存亡にかかわることもあるようである。

フィギュアスケートは、私にとっては、唯一の自己解放の機会である。

日々の仕事や生活に不満はないし、むしろ満足した日々に感謝しているが、それでも、息が詰まってしまうこともある。そんな行き詰りの時に、無心になって、白いリンクをみつめる、本当に、ただ一つの拠り所なのだ。

スポーツなので、勝敗は決しなければならない。採点の基準に変更があるのも仕方ないのかもしれない。でも、政策誘導によって日々変化する仕事がらみの制度のように、今年はどうの、来年はこうの、と、ルール変更が当たり前にあるのは、やはりおかしくないだろうか?野球に例えれば、ホームランを出やすくするために、ボールの重さやグランドの大きさを変えるかのように感じるのだが...。

年ごとに変わるルールに対応せねばならない選手達は大変だと思う。で、潤うのは、ルールに適した「勝利プログラム」を提供できる振付家であろうか?もちろん、そのプログラムをこなすだけの力を選手達は要求されるのであるから、選手間の力量も測られるのであろう。でも、面白くない。

ルールに対応したプログラムを忠実に披露できた選手が勝つのが、試合、としたら...そこにドラマは生まれるのであろうか?ドラマは、不確実性を母体として、演技者と観衆の熱気を栄養とし、不安からの超克を産婆として生まれる。要するに、「できるかどうかわからない、でも、やる!」といった状況に育まれるのであろう。

そう考えると、高難度ジャンプを推奨するルール改正は、ドラマを生みやすい環境を作っていると思えるかもしれない。でも、全く違うと、私は思う。仮に4回転挑戦が、ルールから誘導された解だとしたら、それに乗るのは当然である。成功しようと、失敗しようと、挑戦するのが当たり前になるだろう。ある選手は成功し、別の選手は失敗するかもしれない。でも、そこにドラマは生まれにくいと思う、成否は、確率論で決まるであろうから。

要するに、「挑戦した方がトク!」という状況で4回転に挑み、成功しても、あまり面白くないと思うのだ。もちろん、その勇気と技量に拍手を贈る気持ちはあるが、そういう称賛と感動とは、ちょっと違うものだと思う。むしろ、4回転を回避したライサチェック(彼の戦略と努力と勝負強さには、心から称賛するのだが)が優勝した五輪の舞台で、果敢に4回転トゥ・ループに挑んでいった高橋選手や小塚選手への感動は、やはり、不確実で失敗に満ちた世界を寝床とする漢(おとこ)達の姿を観せてくれたからではないかと思うのだ。

ロジカルに考えれば、特に、高橋選手は4Tを回避してプログラムを丁寧にまとめれば、もっと点数が出たかもしれない。そういうルールだったと思う。でも、それでも敢えて4Tを挑んでいった高橋選手には、不確実な世界と戦う姿もあったのだと考えるのだ。これは、4Tの成功が確実とか、不確実と言っているのではない。そのジャンプに挑むのが得か損か、それすらわからない、ということである。それでも、敢えて、難しいジャンプに挑むのが格好良いのではないだろうか?

もちろん、難しい挑戦に見合うだけの評価がルールに反映されていないという問題は、検討されねばならない。4T挑戦が、明らかに損だとすれば、当たり前だが問題であろう。でも、その挑戦が明らかに得だとするなら、それに抗って4回転回避の策をとる選手の方が、格好良いという見方もできるかもしれない。

ドラマは、不確実性を母体とする。

皆がこぞって4T挑戦を選択するように、ルールが誘導するのなら、そこにはドラマは生まれにくいだろう。「その方が得(=点が出やすい)」という意図に、人はどれだけ感動できるものなのか...私は疑問である。

むしろ、羽生選手のように、4T挑戦をジュニアとシニアとの境界と位置付け、それを越えようと努力する姿には、その選手独特の美学を感じることができる。是非、4Tを試合で降りてみせ、漢になってほしい。

フィギュアスケートは点獲りゲームと、ある方が言われた。その見識には、私は乗れない。優劣の基準が得点の高低であることは確かである。でも、より高い得点が出たら、私達は感動するのであろうか?そこにドラマを見つけられるのであろうか?私達が観るのは、演技そのものであり、語るのは、演技の裏にある意図についてであろう。スコアは、後付けにすぎない。私達の感動と呼応するようにスコアが出るなら、それは喜びである。でも、私達の感動を裏切って低いスコアだとしても、それは失望だけでなく、頑張った選手への感謝の気持ちに変わるのではないだろうか?

仮に選手達の目標が、より高いスコア獲得であったとしても、それでも、選手達には美学を持っていてほしい。損得にとらわれず、時にはルールの誘因に抗ってでも貫く美学が演技に現れるのなら、きっとその演技は感動的ではないかと願うのだ。

ルール変更を検討する担当者の方々にしても、自分達にとってフィギュアスケートとはどんなスポーツか、その”フィギュアスケート観”を共有しあい、それに沿ったルール策定をしてほしいものである。選手達の”あるべき姿”を思い描き、仮に批判があったとしても、1年や2年でブレたりしない、そういう確固たる美学が、採点基準から読み取れないのなら、このスポーツには魅力を感じないかもしれない。

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