昨夜、レイトショーで”ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破”を観てきた。
ーーーーーーーーー以下、モロ ネタバレですーーーーーーーーーー
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その2日前の水曜日にも観たので、2回目だった。初めて観た時の感想は、なんだかわけわからん...だった。事前予告などは全然観ておらず、今回の新劇場版:破でどこまでストーリーが進むのか予想がつかなかったので、物語の全体像をつかむだけで、水曜日は終わってしまった。でも、映像と音響の造り込みは素晴らしく、迫力ある動きが大スクリーンから迫ってくるのは、やはりアニメ映画の醍醐味だと思う。だから、消化不良で終わった水曜日のうちに、日をおかずに見直すことを決めていた。
興味深かったのは、上映後のお客さんの反応。「全然違ってた」とか、「夢オチで終わるとかにならないよな...(四部作の結末についての予想だと思われる)」、「途中で気持ち悪くなった(女性の声)」などがチラホラと聞こえたが、多くの人たちが神妙な面持ちで静かに出口に向かっていた。およそ、デートには向かない映画だと思う。
”今日の日はさようなら”のところに至っては、観客への精神攻撃か?と思うくらいにダメージを感じた。映像そのものはエヴァだから許容できるが、小学生時代を思い出すであろうBGMをああいう場面で使わんでほしいと思う。二回目では慣れたが...。
”序”は、スケート仲間だった方や、A様と観に行ったりもしたが、”破”はお独り様向けの映画だと思う。せっかく誘ったのに感想が、「気持ち悪い」では申し訳ない。お互いにエヴァを知り尽くしているカップルとか...あるいは、熱狂的な綾波ファンとかなら別かもしれないが(昨年度の卒業した学生で一人居た。雰囲気が似ていると言ったら喜んでいた...レイに似てるって嬉しいことなのか今でも疑問だが...)。
2回観てディテールが少しわかってきた。あと5回は観るつもりだが。
”序”もそうだが、”破”でも映像が暗めで展開が速いので、使徒やエヴァのフォルムがわかり辛い。仮設5号機と第3の使徒との戦闘は、余程目をこらさないと、5号機の義手パーツや脚部の形を把握することができない。というか、予備知識がないと、とてもじゃないけどこんな姿(リンクはこちら)だなんてスクリーンから想像することはできないだろう。使徒は、ワケわからな感が不気味さを煽るし、どうせ色々な形に変化してしまうのでカタチはわかり難くてもいいけど、主人公であるエヴァのわかり難さは「何度でも劇場に足を運んで、繰り返し観て理解してください」という、営業的な戦略ではないかとさえ思ってしまう。
その戦略に見事にはまり、何度も劇場に足を運ぶつもりだが...。
二回目でやっと、第3の使徒のコアをつぶすと同時にエントリープラグが射出され、その直後に5号機(仮設)は自爆するという流れを観ることができた。初回は、なにがなんだかわからなかった。ついでに言えば、第10の使徒との戦いでも、ビースト化した2号機がATフィールドを破り切って0号機がN2航空爆雷(かな?)をコアに貫こうとするが、その直前に使徒はシールドを閉じてしまったので、2号機と0号機の連携がフイになり、0号機が捕食されるに至るというのも、なんとかわかった。ここも、初めて観た時には全然わからなかった。ただ、素体が晒された0号機があっという間に喰われたことに衝撃を受けるばかりだった。
そして、0号機(+レイ)を取り込んだ第10使徒がネルフ本部を攻撃した衝撃で転んでしまうシンジが、もう一度立ち上がる場所、あそこは、加持のスイカ畑だったのだろう。「ミサトを守ってくれ。それは、君にしかできないことだ。」と、焼けた蛇口が語っていたのに、2回目で気づいた。
最後だが...エンディングのクレジットも流れ切った後で、今回上映分のストーリーの結末に至るのは、いかがなものかと思う。カヲル君光臨で初号機によるサードインパクトが止められるという、肝心な部分を、クレジット途中で退席したお客さんは観ないままになってしまうではないか。もちろん、次回予告の「サービス サービス」が終わるまで席を立つ人はいなかったけど、”破”をひとつの作品として観た時には、終わり方の半端さが気になる。カヲル君に至っては、一度も名前が出てこないし。渚カヲル=使者オワリ=タブリスという設定は、新劇場版でも生きているのだろうか?名前が出ていないのだが...。
で、結局、そのあたりのことが気になって”Q”を待つのだろう。カネゴンとか出る予定はないですよね?
気になるといえば、初号機がシンジだけでなく綾波も取り込んだままで凍結と、次回予告で言っていたけど、そりゃなんじゃ?と思った。綾波とユイとの関連がいまひとつわからないのだが、雰囲気的には拒絶するんじゃないかと...。シンジとレイとの邂逅自体が仕組まれたものだったのを考えると、二人を巻き込んだ凍結にカヲルがどう絡むのかが気になってしまう。特に、「今度こそ君を幸せにしてあげる」というのは、旧世紀版での人類補完計画の失敗を意識しているのかな...と。時系列的には旧世紀版と並行しているはずだけど、実際には、旧世紀版を前提にして、この新劇場版を進行させているフシがある。未だに名乗っていないけど、カヲル君のことを観客が知っているのはお約束のようだし...。
結局、私達の視点は、加持のようなものかもしれない。
新しい世界に適応せねばならないのだが、旧い世界への思い出も捨てきれない。新劇場版はそれとして楽しみにしているが、旧世紀版との比較も楽しみたい。そういえば、”破”では携帯電話を当たり前のように使っており、”序”で大活躍だったカード型公衆電話は姿を消してしまった。”Q”では、スマートフォンとか登場するのだろうか?
旧作との比較やそれによる今後の展開予想ができるのも、私達が旧・新の両方に関する情報を持っているからである。もちろん、”Q”以降の情報は無いに等しいが、”序””破”と積み重ねた蓄積は大きい。そこに、旧作の知識を補完しながら、新しいエヴァ世界を脳内に構築しているのだろう。私達は、エヴァの世界では海が赤いことを知っているし、南極大陸が消滅してえぐれていることも了解している。でも、加持が語っているように、昔は海が青かったこと、磯や潮の香りに満ちていて、生物の営みがそこで育まれていたことも体験している。
同様なことだと思うのだが、今の学生達を見ていて非常に不安を覚えるのは、アナログ世界を知らないゆえの脆弱さである。
物心つき始めた頃にはコンピューターが世間にあった彼らの思考がデジタルかと問うなら、決してそうではないと私は言いたい。むしろ、思考パターンは非常にアナログチックであり、ドライな割り切りが苦手なようである。論理性に欠けるとも言えるが...。
私が指導している学生達は、学業のレベルでは高い水準を維持していた人たちばかりのはずだが、コンピューターには親和性を持っていないようである。実習の指導をしていて一番苦労するのは、情報処理をパソコンベースでできないことである。ワープロに打ち込んだり、エクセルに入力することはできるのだが、そこから抽象レベルの概念を抽出していく作業をパソコンを使ってできないのである。あるいは、エクセルで表を作らせようとしても、真っ白な画面にレイアウトを考えることができずに途方にくれている姿をよく見かける。
現在大学生である彼・彼女達は、エヴァの世界観で言えば、ジオフロントがセントラルやターミナルといった深化の構造になっているとか、あるいは24層の特殊装甲とか、更にはエヴァのエントリープラグ内の深度によってエヴァのパフォーマンスと精神汚染リスクとが増していくという、多層的構造を理解することは苦手だと思う。そういう、物事を構造として把握し、自分でも語っていくという訓練をあまりしていないようなのだ。
逆に考えると、私達はなぜ、エヴァ的世界構造を容易に受け入れることができるのであろうか?これは、少年期の頃から荒唐無稽な空想を頭に描く習慣があったことと関係があるかもしれない。しかも、荒唐無稽でありつつも、構造はしっかりとしており、その世界ならではの論理を了解してもいた。なぜなら、与えられた世界観は、大の大人が真面目につくりあげたものだったのだから...。
たとえば、マグマ大使、地下にはアースの基地があり、それは巨大ロボット人間が待機できる巨大空間であることを幼稚園の頃から知っていた。あるいは、ウルトラマン。なぜかは知らないが、宇宙には遠い星ぼしの危機を救ってくれるボランティア組織があり、兄弟間や親子間といった世代的な序列があり、それは(スポンサーがつく限り)拡大していくものであることも、子どもながらに理解していた。仮面ライダーにしても、まるでパラレルワールドのように悪の組織は幾つも並存しており、それに対抗してヒーローは何人でも生まれるし、シリーズを重ねるにつれて悪の組織は、更なる上部組織のもとで改変をしていくという、後付設定の摩訶不思議さをも柔軟に理解していた。
テレビを通して学んだのは、テレビの世界には、画面では満足に語られないけれども複雑な世界観(=制作上の設定)が背後にあるということであった。それらを子どもながらに受け入れ、一生懸命理解することで、現実的には在り得ないはずの、複雑な概念を当たり前のようにしてきたのだと思う。テレビや関連雑誌から仕入れたその手の知識を、口角泡を飛ばしながら友達と話してきた。そういう知識を雄弁に語れることがステータスであったとも言える。今思えば、すごい思考訓練だったかもしれない。
もちろん、今の学生達に友達付き合いとか、コミュニケーションスキルが足りないといいたいのではない。そんなつまらないことを言っても仕方ないし、彼らはそういう訓練の経験は十分受けている。自分が大学生の頃に比べても、今の学生達はセンシティブであり、ナイーブに思える。だから、礼儀正しいし、社交的でもある。
でも、抽象的な概念を生み出したり、操作したりする訓練には乏しいとしか思えない。現象を理解するためには欠かせない、物事を部分レベルで吟味しながら自分なりに構築していくという思考の訓練に関しては、苦手なのかなぁと感じるのだ。見たものを見た通りに表現したり、教わったものを教わったとおりに記述することはできる。あるいは、感じたことを素直に言い表す時には、生き生きとした表情もみせる。でも、そういう感想や既存の知識を一時留保して、物事を自分の脳内で組み立ててみる作業は、できないのだ。
具体例を言えば、心不全とその症状は勉強すればわかる。チアノーゼという現象がどんなものかも理解してくれる。でも、「心機能の低下によって体内の酸素化が不十分なために、末梢でチアノーゼが出現するのではないか?」という、”酸素化”という概念をイメージするのがどうも苦手なようだ。もちろん、この概念についてもできる限り説明を試みる。だが、私の知識の不足もあり、具体的記述のレベルでは、酸素化という概念を学生達がストレートに理解できるほどにはしっかりと説明できないのだ。申し訳ないのだが...。ここは、酸化ヘモグロビンが酸素を必要としている臓器に十分に供給(=運んで)している状態をイメージしてもらうしかない。この場合には物流のイメージが良く、例えば、以前は高速道路で遠隔地まで供給できていたのに、今は高速道路に渋滞が生じてしまって届くのに遅れが出てくるようになったとか...だが。
こういうビジュアルイメージが得意な世代と、苦手な世代があるように思える。いわゆるテレビっ子世代と、活字で空想を広げたそれ以前の世代ならば当然かもしれないのだが、現代の大学生世代がビジュアルを苦手とするのは、なぜなのだろうか?おそらく、彼らは、LCLが口や肺だけでなく、パイロットの手足や脳内にまで満ち満ちていくという充実感を、エヴァの映像からイメージすることはできないのではないか、とさえ思ってしまう。見たものをそのままでは感じるのだが、そこから現実世界へと発想を応用させるように仕向けても、反応が芳しくないのだ。
仕事との絡みで、その原因を色々と探っていると、彼らがセカンドインパクトの時に小学生であったことが大きいのではないかと思うに至った。この場合のセカンドインパクトとは、1999年のiモードサービス開始をはじめとした爆発的なIT化のことを言う。
現在20歳(大学2年生くらい)の人たちが10歳(小学4年生くらい)の時に、iモードをはじめとして、IT化の流れは奔流となった。インターネットそのものは、1995年のウィンドウズ95発売の頃から一般に普及していたが、ネットやメールが当たり前になった決定的な要因は携帯電話からのネット接続だと思う。だから、小学生の時からITの洗礼を受けてきた今時の若者は、思考や意思決定のツールとしてIT機器をバリバリ使えてしかるべきなのだと思う。ところが、少なくとも私が知見する限りでは、彼らは私達、旧世代以上にデジタルオンチなのかもしれない。「パソコンは苦手」と言う学生達の多いこと。実際、彼らのメモリスティックを見せてもらったりすると、壮年期のパソコンユーザーのように、あらゆるファイルがごちゃごちゃに詰め込まれている。階層フォルダによる分類が得意でないのだろうか(このあたりの実態は、是非調査したい)。
気の毒なのは、彼らが受けた教育なのだろう...。
いわゆる、ゆとり教育については語らない。不愉快なので。
ただ、おそらくはいっそう不愉快だろうけど、初等・中等教育での教員の質(デジタル文化だけに限るが)に問題があったと推測している。
デジタル機器に関しては、小学校時代に算盤(あれだって立派な計算機だし、非常にデジタルなアルゴリズムを持っている...と思う)しか教わらなかった私達の方がマシだったのではないか。実際にはデジタルディバイドの被害者なのかもしれない教師達から、中途半端にパソコンやIT技術を教わる破目になった子達は、本当に気の毒だと思わずにはおれない。
私達にとっては、パソコン(その前はマイコン)は夢の機器だった。中学・高校生の頃、友達と自転車でマイコンショップめぐりをして、ピカピカのキーボードに触った時のドキドキ感は、今でも覚えている。ショップに行けば似たような仲間達と出会えた。今のスケートリンクのような場所だった。
父が勉強用に買ったPC-8801を触らせてもらい、BASICの本を読んで動かしてみた時の楽しさも忘れられない。誰も教えてくれなかったから、自分でしたいように勉強し、頭を全力疾走させながらフローチャートを思い描き、そして自分のものにしていった。エヴァで言えば、貪欲に捕食し、取り込んでいったのだ。そういう独学で、タッチタイピングやフォルダ内へのファイル保存、書式設定など、初心者が苦労しがちな課題をクリアしていった。
でも、パソコンが当たり前の時代になるにつれて、パソコンは学校やスクールの教材、そして科目になってしまった。理科や算数みたいなものと同じなのかもしれない。実際、九九ができないと社会で生きにくいように、パソコンも初等教育で馴染んでおいた方が良いのかもしれないが、多分楽しくなかっただろう...。そういう感想を学生達からきいたことがある。しかも、教える教員も、パソコンに触れたのが社会人になってから(1999年に45歳だとすると、8ビットマイコン全盛の1980年代前半には30歳に手が届いていた。40歳を越えてからWIN95にワクワクできる大人は、どれくらい居るだろうか?)としたら、義務感で教えていたのかもしれない。今のようにパソコン教材も充実していなかっただろうし...。
結局、彼ら、IT化の爆発的膨張という、セカンドインパクトの渦中に小学生であった世代は、ITのスキルで言えば谷間に位置するのではないかと危惧する。私達のように、誰からも教えられずにパソコンを友達やビジネスパートナーとできた世代、そして本当の意味でのチルドレン達(1999年以降に生まれ、IT環境が整備されたなかで初等教育を受けられた世代)のはざまにあり、パソコンを苦痛に満ちた電子算盤、あるいは不恰好で時代遅れの大型ケータイとしてみているとしたら、こんな不幸なことはないだろう。
「勉強は楽しくないと身につかない」と、学生達には常々言っている。発想を豊かにしてほしいので、テレビを見るように、マンガを見るようにと伝えている。本ばかりでは、情報の間口は狭くて仕方ない。読まないのもマズいが...。大体、「本を読め」と言う大人達は、テレビのない世代に育ったのだから、彼らの言うテレビ有害説はあてになるわけがない。テレビを知らない子供達だった大人よりも、テレビから豊かな世界を教わり、映像から目には見えない世界観を頭に描く訓練をさせてもらった私達の世代こそ、テレビの有用性を語るべきではないだろうか?
実際、そういう世代のクリエーター達が幅をきかせているし。
「結局、私達の視点は、加持のようなものかもしれない。」と先に記したが、2015年に30歳となる加持に近いのが、2009年に成人となった現在の大学生達であろう。ただ、加持はセカンドインパクトの時には思春期を迎えていた。衝撃の影響は後の人格形成に傷を残しただろうが、起こってしまった事件の前後を客観的に捉える視点は持っていたのかもしれない。反面、現実世界でのセカンドインパクトである1999年以降のIT化については、現在の大学生達はその前の世界を知らずにいる。彼らは、コードにつながった黒電話も知らないだろうし、レコードも知らない。物心ついた時にはパソコンは当たり前であり、学校で習う課題であった。放っておけばすぐに時代遅れとなり、使い物にならなくなる学校の備品に魅力を感じろという方が無理だろう。混乱の渦中を、前の時代と比較して受け止められた世代と、全然理解できないままに進まされた世代...。加持との4歳の違いは、実は途方もない世代間ギャップを生んでいるかもしれない。
私自身は、2015年には50歳になる予定であり、世代的にはゲンドウとほぼ同じである。旧世界からの変貌を受け入れ、身を施す術も考えてはいる。おそらくは、現在も、今後も手足のようにIT機器を使っていくだろう。「使いこなせるか?」は別だが、要求されている仕様やスペックに応えねばならないとも思わない。私にとってパソコンは、コミュニケーションツールであるのはもちろんだが、それ以前に、思考支援ツールである。自分で考え、思考としてまとめ、表現する。そのための機器であり、そのためのスキルを人からではなく、自分で学んできた。そういう自負がある。
そして、現在小学生である、本当の意味でのチルドレン達、彼らがIT機器にスイッチを入れている現在は、教育環境も充実しており、ちょうど私達が家電製品を当たり前のように使っていたのと同じ、あるいはそれ以上に自在に機器を使っていくだろう。今年高校生になった甥のプレゼン作品を見ていると、内容の若々しさは置いておくとしても、表現の巧みさと精緻さには驚きを覚える。手足どころか指先としてパソコンを使い倒している。今の大学生達のどれほどが、高校生になったばかりの甥以上のスキルを持っているだろうか?これこそ、個々の才能というよりも、世代間ギャップによるものだと思う。子供達にとっては、1999年付近の1年の違いは、その他の時代の5年の違いに相当するかもしれない。あそこには、明らかに爆心地があったようだ。初等教育の質の違いは、これから大人となる人たちにとっては大きなディバイドとなるのではないかと心配している。
さて、少しエヴァ脳から離脱して、現在指導している学生達のことだけに絞るが、私がやらなねばならないのは、IT化の流れへと慣れていくための支援であろう。私の専門である、老年看護学の領域でもIT環境を整備したうえで仕事するのは当たり前である。私と同じくらいの女性スタッフでも、自在に文書や表を作成するし、報告書はサーバーから書式を呼び出してくる。そういう、業務上の作業に違和感を覚えないのは当然だが、学問として看護を学ぶ以上は、思考支援ツールとしてデジタル機器を使えねばならない。
自分の頭の思考を見えるカタチに表現できないとしたら、何のための学問なのか?
.例えば、他者にわかってもらうために、どんな情報を表にまとめるか? 思考のプロセスを理解してもらうためのツールとして何があるか? それらを一生懸命考えてもらわねばならないし、私も工夫し続けねばならない。特別な研究報告とか手順書とかではなく、日常的な思考や情報の共有のツールとして、パソコンが使えなければいけない。
少しだけ専門的な話になるが、看護診断はセカンドインパクトにはなり得ない。思考プロセスが脆弱だから。大切なのは、診断ラベルを自分で産み出せる力である。それでも、”敢えて”既存の診断ラベルと照らし合わせて、そちらに表現を譲るとしたならば、それは素晴らしいことだと思う。そして、その過程は協働者達に理解してもらわねばならない。なぜ、その診断ラベルを適応するのか、その基準と妥当性の検証は、共同作業として続けなければ、看護診断は陳腐なスローガンに堕するだけだろう。(私としては、その方が好都合だが,,,)ITとは、そういうものだろう。常にブラッシュアップせねばならない。情報も思考も生鮮食料品と同じくらいの扱いでちょうど良いのだ。
そのような、フレッシュな思考過程を、皆で共有できる可能性が持てたことが、IT革命だと、私は思うのである。ブログやwikiはその典型例だが...。新鮮な食材を全国隅々にまで供給できるようになったのが物流革命とするなら、人々のフレッシュな思考を多くの人たちが共有・保存できるようになったことこそ、IT革命のはずである。写メールで切り取った一瞬や、思い出のデコメール、思いの丈を綴ったブログ、今までだったら風化してなくなってしまいそうな一瞬のひらめきが、ITによってカタチにでき、分かち合える。
そういうスキルを、社会で生かすようになってほしい。IT革命の混乱の渦中に初等教育を受けた、現在の学生達もである。彼らが社会人になった時に困らないように、精一杯の応援をしていきたいと思うのである。決して彼らはIT革命の申し子ではない。もう一度エヴァの話に戻れば、彼らは日向マコト(2015年に24歳)などNERV本部のオペレーターに近い世代だと思う。意志決定は上層部に委ね、前線はチルドレン達に託さねばならない、微妙な存在ではある....でも、彼らの働きがなければ事は動かないだろう。
映画では、第10の使徒にセントラルドグマが破壊された後も、モバイルパソコンで初号機をモニターし続けたマコトの根性に感動した。ああいう、真摯で強靭な遂行能力を、是非学生達にも伝えたいものである。そのためには、私自身がもっと進化せねばならない。
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