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2009年7月

2009年7月27日 (月)

タラソワの本気、真央の全力

昨日、THE ICEの夜公演に行った。

ラストの浅田真央選手のエキシビションを観て、鳥肌というよりも戦慄が走った。「悪寒」といったら言い過ぎかもしれないが...でも、悪い夢を見ている気分にもなった。

演技は素晴らしかった。技術的にも、表現でも、この人以外に来年の女王はいないと予感させられるくらいに素晴らしかった。衝撃は、一昨年、真央選手が世界選手権を獲ったシーズン開始に野辺山で観た、”So Deep is The Night”を越えるものであった。

バレエのドンキホーテで、キトリが終幕のバリエーションの時に使うようなスペイン扇子を用いたエキシというのは、テレビでも報道していたので知っていた。タラソワの指導の様子も少しだけ映像になっていた。でも、あそこまで使いこなすとは、夢にも思っていなかった。演出として、大人の雰囲気を醸し出す小道具として使うだけだと思ったのだが、とんでもない!

開いた時には風神のように風を操り、閉じた時には雷神のように天地を貫き、文字通り自在に操って氷上を巡っていた。

曲は、最初はタンゴかと思った。でも演技が進むにつれて、耳に馴染んだフレーズに気が付く。「マキシムがアルバムで取り上げていたよな...」と、思い出した時に、先にも記した、悪寒にも似た戦慄が走った。

ラフマニノフの...パガニーニ!!  タラソワは、五輪シーズンの真央にこの曲をエキシで躍らせるのか...と、絶句した。

帰宅後にネットで確認して、エキシタイトルの”Caprice”は、パガニーニの「奇想曲」であることを知った(こちらを参照して下さい)。なので、ラフマニノフは、このエキシでは関係ない。でも、フレーズを聴けば、やはり思い出すのではないだろうか。だから思った、このエキシにタラソワのプライドを賭けた本気がこもっていると。

荒川静香がトリノを前にお蔵入りにした、タラソワのSP。

なぜ、タラソワはそのモチーフとなったパガニーニの奇想曲を、真央に躍らせるのだろうか,,,?私には、少なくとも、悪意は感じられない。むしろ、バンクーバーに向けたタラソワの思いを感じずにはおれない。プライドを賭け、真央に本気でロシア的な美と自身の芸術を叩き込もうとするタラソワ。過去ではなく、現在に生きる指導者として、彼女は今シーズンにある答えを出さねばならない。

荒川静香の選択は果たして正しかったのか? 

もう、結果は、トリノの金メダルとして出てしまったのだが、タラソワにとっては、答えはまだのはずである。「本当に自分ではダメだったのか?」”パガニーニの主題による狂詩曲”のSPを”幻想即興曲”に変更し、モロゾフの手で焼きなおされた”トゥーランドット”でなければ、荒川静香はオリンピックで勝てなかったのか?

私達にとっては愚問であるこれらの問いも、タラソワだけには、今も残る切実な課題なのではないか?と私は思うのである。もちろん、浅田真央は荒川静香ではない。勝負の場はバンクーバーであり、トリノでもない。歴史の歯車を逆転させることは、誰にもできないのは明らかである。でも、現在もコーチとして、逸材を磨き上げられる稀有な才能の持ち主として、フィギュアスケートの世界で生き続けるためには、トリノ直前にし残した課題を片付ける仕事が、タラソワには残っているのではないだろうか?そのパートナーに選ばれたのが、浅田真央なのであろう。

「浅田真央、17歳」に記してあるが、真央選手のコーチは、タラソワの方から打診したらしい。結局、イェテボリの前に真央選手が左足首靭帯を損傷してロシアに行けなかったため、2008年の夏頃からの関係になったが、タラソワは2007年のGPFの時には真央サイドに指導したい旨を伝えているようである(pp.12-13)。

荒川静香と同じ日本人選手の指導をタラソワが考られたのは、荒川さんが別れ際に礼を尽くしたおかげなのかもしれない。タラソワも、自分のもとを離れる教え子に手紙を書いたことが過去に報道されたし、結果として別れになったが、お互いに良好な関係を保っていたので真央選手の指導を考えることができたのではないかと推測する。

そして、し残しの課題を真央に託したのであろう。今回のアイスショーで、激変した浅田真央を観ることができた。おそらく、仮面舞踏会を経験したから、今回のような激しく、魅せ続けるエキシを演じられるようになったのではないかと思う。ジャンプがどうとか、スピンがどうという感じではなかった。タラソワの追求する美が、ロシア的な美の真髄が、真央に乗り移って形になっていると私は感じた。そう記すと、浅田真央の真央らしさはどこにあるのか? 彼女の主体性はないがしろにされているのか? との疑問も出てくる。

でも、そうではなく、タラソワの意図を素直に解釈し、その美を、全力で摂り込んで、全力で自分の表現にしていく懐の深さが、浅田真央選手の真央らしさなのだと思う。だから、パガニーニを踊りきれるのかもしれない。情感あふれるステップとスパイラルでショパンを踊るのが真央だとしたら、技巧の粋を極めた純粋な音楽を、身体全体で形にできるのも、真央なのだろう。この可能性の広さと深さに、タラソワは賭けたのかもしれない。

荒川静香では果たせなかった、オリンピックでの”パガニーニの主題による狂詩曲(作曲 ラフマニノフ)”。トリノでは伝えられなかった真髄を、浅田真央のフリーとエキシに託したと言ったら勘ぐりすぎであろうか?でも、五輪のエキシビションで、真央がこの曲を舞った時、二人のマリアージュが完結するのだとしたら、それは物語のエピローグではなく、本編の書き出しになるはずだ。タラソワにとっては2006年で止まっていた時計が動きはじめ、2014年のソチに向けて、ロシアフィギュアの建て直しの仕事が加速するはずである。バンクーバーは、それに向けての一里塚である。同様に、日本フィギュア界にとっても、バンクーバーで終結するわけにはいかない。逸材はどんどん育っている。村上佳菜子選手も、このショーで素晴らしい演技を魅せてくれた。

これらの逸材達を磨き上げる仕事、それを国内で果たすためには、真央はタラソワから何を教わってきたのか、それを読み解く課題が残るのだろう、と想像している。

もっとも、全ては想像であり、推測である。確信をもって記せるのは、THE ICEでの浅田真央選手のエキシビションは素晴らしかった、それだけである。もう少し加えれば、あの舞をバンクーバーで是非観たい、そう思ったのは、私だけではないだろう。

2009年7月20日 (月)

Training to be a Good Ctizen

日ごろ感じていたことを記します。

「バレエストレッチは、エアロビでは禁忌」と、エアロビインストラクターをしている知人から教えてもらったことがあった。ちょっとびっくりしたが、話をうかがって理解できた...(と思う)。

ご存知の方も多いと思うが、バレエに適した体型というのは、股関節をできるだけ(180度という条件はないが)外側へ開く(=ターンアウト)ことに特徴がある。他にも、脊髄を上方向に伸ばすとか、尾骨を下げるとか、色々あるのだが、生理的な安定性とはちょっと違った方向に人の身体を造りかえることを求めている。解剖・生理学的な見地から、きちんと根拠のあるエクササイズを通して体型変化は果たされていくのだが、目的はあくまでも、舞台で踊るためであり、健康の保持・増進ではない。

なので、バレエストレッチを一生懸命やれば、関節可動域は広がるが、無理をすればスポーツ障害を起こす可能性もある。あと、エアロビックスダンスは、息を吐きながらのゆったりしたストレッチも行うが、テンポに合わせての屈伸運動も行うようである。速いテンポで股関節のターンアウトや膝関節の過度なストレッチをしたら、それは危ないかもしれない。エアロビには、エアロビに適したストレッチがあるようである。

なので、専門的な技能習得を目指すエクササイズなのか、それとも健康の保持・増進を目指すためのトレーニングやエクササイズなのか、その目的は大切であると、インストラクターの話から学んだ。

それでも、誤解してほしくないのだが、バレエ教室で大人対象で行っているエクササイズは、姿勢矯正や血行促進、呼吸機能の改善やストレス解消といった健康上のメリットは大きいはずである。教室の先生も大人には無理をさせないだろうし、むしろ大人に適したメソッドを考えて下さっていると思う。それは、例えばワガノワとか、RADといった本格的なメソッドとは異なるかもしれないが、目的が違うのだから、メソッドに変化があるのは正しいことだと思う。

大事なのは、なんのためにエクササイズやトレーニングをしているか? ということである。

その世界に憧れ、雰囲気だけでも感じたいという願いで、リンクやスタジオに向かうのも、大いにアリだと私は思う。私もそうだった。でも、人間は欲があるので、リンクやスタジオの住人になれば、更に別の目的も持つかもしれない。

人より優れた技術を習得したい、先生やレッスンメイトから認められたい。このような思いも認められてしかるべきだと思う。私だってほめられれば嬉しい。逆に、欠点を指摘されれば凹む。自然な感情だと思う。人から、「凄い!」と言われるために頑張っているという意識は、前面には出したくないが、無いと言えば嘘になる。 ただ...初心者の頃からジュニアの世界チャンピオンの練習を目の前にしていたこと...決して自慢ではないが、これは私の原風景である。「上手とか下手とか、人と比べても仕方ない....自分は自分!」と思うしかなかった、そう思えなかったら続けることはできなかったと思う。フィギュアを始めた頃の私がいたリンクは、世界とつながっていたのだ。そこで上達するためには、”上手・下手”という意識を捨てること、”下手は下手なりに頑張る”という気持ちを貫くことが必用だった。そうしなければ、きっと荒波にもまれ、自分の下手さ加減に嫌気がさして、すぐに投げ出していただろう。

それは今でもそうである。選手達がサルコウやトゥループのトリプルを跳ぶ中を、一生懸命シングルやスリージャンプを跳ばせてもらう。「あのオジさんが居なければ、もっと空くのに...」と思っている人もいるかもしれない。でも、申し訳ないけど、私も練習したいのだ。だから、とにかく転ばないように、選手達のジャンプコースを邪魔しないように、そっちにも一生懸命になる。もう、上手いとか下手とか言っている場合ではない。自分以外の全員が、自分以上のレベルなのだから...。

そこで生き残るには、どうするか...? 転んだりして迷惑をかけることを少なくする努力、それともうひとつ求められるものがある。「良い市民」になることである。”大人としてのロールモデル”と言っても良いかもしれない。選手のコースを邪魔してしまったら、すぐに謝る。どちらが悪いかとかそういうのを抜きにして、こちらから折れる。あるいは、経験を生かした危険予測や安全への配慮に神経を使っていく。時には、ジャンプコースの真ん中で遊んでいるレジャー客に、そこでは危ないと注意を促すこともある。ジャンプコースであろうと、どこであろうと、初心者が入ってはいけないエリアは、私の練習するリンクにはない。だから、私のしていることは間違っているのかもしれない。

でも、大事なのは、事故が起こらないことである。

どちらが正しいとか、筋が通っていないとか、そういうことではなく、安全のレベルを上げていくこと、逆に言えば事故のリスクを減らしていくこと、それは、大人の役割ではないかと、個人として考えている。もしも、選手が「邪魔だからどいて」と言えば、角が立つだろう。あるいは、係員が注意を促せば、「ここに居てはいけない決まりでもあるのか?」と言い返されるかもしれない。係員は、明文化されたルールに従って指導する。でも、リンクには伝統的に不文律のようなものもある。

”ジャンプコースに長時間滞留していたら危ない” 

そもそも、ジャンプコースなど明確には決まっていない。多くの選手達がそのコースでジャンプ練習をするから、それがわかるだけである。でも、そのコースの中にしゃがみ込み、氷の破片をかき集めていたりしたら危ない。決まりや規則ではなく、現実の状況として、そうなのである。この時に、半ば頭を下げながら、理解を求める役割、それは、係員ではない常連客、要するに私達のような者がやるのが通りが良いのではないかと思っている。

突き詰めて言えば、私はそのために居るのだと思っている。

別に、ジャンプやスピンが上手になっても、それはあまり意味がないかもしれない。もちろん、技術が向上すれば嬉しいし、実践が実を結ぶほど幸せなことはない。でも、人から褒められて手放しで喜ぶには、歳をとりすぎた...(笑)。上手・下手にこだわるよりかは、事故や怪我のない、安全なリンク環境をつくることに協力する方が、自分らしいと思っている。もちろん、主眼は練習に置き、練習中に気づいた範囲だが...。それに、私自身が人様を危ない目に遭わせたり、迷惑をかけたりすることもある。エラそうなことを言う時ほど、そういう場合が多い。だから、あまり立派なことは言えないのだが...。

上手・下手に拘らないなら、何のために一生懸命練習するのか?

これは、数年来悩んでいた問題である。試合に出ることも励みになったが、マスターズに出て得たのは、達成感よりも不全感であった。大好きな大会だし、私達の演技を観て来年の参戦を決意した方々もいらっしゃるので、滅多なことは記せない。でも、マスターズに出場するようになってから、夢がひどくしぼんでしまった感じを抱いている。この世界で人より秀でようとすること、人より優れた技術を目指すことが、なんだか空しい、そんな気持ちがあるのだ。

そんなことを記したら、フィギュアスケートの技術向上自体を軽視することになるだろうか?選手の方々の努力を認めないことになるのだろうか?

でも、少なくとも私は選手ではない。オリンピックを目指していないし、フィギュアスケートよりも他にやらねばならないことがある。一芸に秀で、それで世界と闘っていく方々を私は惜しみなく応援する。真央選手に、舞選手に、安藤選手に、小塚選手に、私はどれだけ励まされ、生きがいを与えてもらっただろうか?

でも、私は彼らにはなれない。どんなに頑張っても、7千メートルの山々を征服することは、私はできないだろう。宇宙旅行なんて、夢のまた夢であろう。もっと違う夢を、私は抱いている。例えば、世界に先駆けての高齢社会で得た知恵を世界に発信していくこと...とか...。フィギュアスケートは、私にとっては趣味でしかない。仕事や生活との調和のなかで実現していく、ささやかな夢なのである。でも、結構頑張って練習している。なんのために、そんなに努力するのか...?

その答えを、私は、犬から教えてもらった。

AKC(アメリカン ケンネル クラブ)のものを日本に導入した、”Good Citizen Test”の受験を、自分の犬とすることを考えていた時期があった。フィギュアスケートを始める前は、自分の飼い犬とアジリティー競技を目指しており、その前段階の服従訓練はトレーナーの指導を受けていた。初歩的なアジリティーの練習も指導してもらっていたが、トレーナーの先生が産休に入り、その間に飼い主である私がフィギュアスケートに浮気してしまったために、アジリティーへの道を絶ってしまったのだ。先生と犬には申し訳ないことをしたと思っている。

Good Citizen Testと服従訓練とは、別団体の試験であり、目的や試験内容も異なる。でも、共通するところも多いと思う。服従訓練のマスターが前提となってアジリティーへと進んでいくが、この三者とも、結局の目的は、”犬と人と社会との調和”であるのではないだろうか? 競技である以上、アジリティーは優劣の序列がつく。でも、障害物競走が得意だからといって、社会で役に立つことはないだろう。昔のダックスのようにアナグマを獲ったり、以前のコーギーのように牛を追ったりするのなら別だが、競技と社会生活上のスキルとは結びつかないのが、今という時代である。それは、ジャンプやスピンが上手でも、世間では何の役にも立たないのと同じである。

もちろん、競技用に特化されたプロフェッショナルな犬なら別だが、私のところのような、日中は喰っちゃ寝で、番犬くらいにしかあてにできない(地震を予知してくれないかを、密かには期待しているのだが、実績はゼロである)犬なら、そんなものである。趣味で行う専門競技とは、そのようなものではないだろうか?ならば、ほどほどにお金をかけ、ほどほどの時間で、怪我をせずに楽しんでストレス解消というのが、賢いやり方のはずである。

でも、実際は違う。犬とのアジリティーは諦めたが、自分ひとりでは、フィギュアでは精一杯、限界まで体を動かす。ひたすら、時間の許す限り頑張り、氷上だけでなく、陸上や水中でも汗を流す。愚直なまでに、頑張っている。

なぜか...? ”Training to be a Good Citizen” なのだと思う。

努力を厭わず、課題達成のために一生懸命考え、汗を流す、その過程にこそ意味があると思うのだ。この過程を通して、「良き市民(=社会人)」になっていくのではないかと、私は信じている。これは、アジリティーや服従訓練を通して、人と協働することを学び、それによって社会に調和し、誰からも愛される犬へとなっていくのと同じ道筋である。私の犬も、基本的なしつけをしてきたので、ある程度(あくまでも、その程度だが)抑制が効き、日々の生活では苦労しない。近隣の方々からも可愛がっていただいているようだ。

人より秀でるためではない。拍手をいただくためでもない。社会の一員として、我慢を覚え、抑制を効かせられる市民になるために、日々の精進を重ねているのではないかと、自問自答している。

トレーニングする私が良き市民であるのではない。良き市民になるために、私はトレーニングしているのである。

その意味では、フィギュアスケートは本当に役立っている。仕事を遂行するうえでの精神的な粘り、プレッシャーに動じない心構え、タフな日程をこなす体力、機敏に状況に対応できる心身のフットワーク、氷上で難しい課題に取り組んでいる経験があるからこそ、ここまで頑張れるのかな...と思っている。もちろん、フィギュア経験の無い同僚や上司が、私よりも更に大きな仕事をしているのだが、それを突き詰めて考えても意味はないだろう。私は、フィギュアのおかげでなんとかやってこれていると感謝している、それだけである。

正確に言えば、氷上での課題への取り組みと、その前段階の体力つくりの両方を考えねばならない。やみくもに氷上で体を動かせば上達するものではないと、私は考えている。これは、犬にとって、アジリティーに臨むためには服従訓練は必須の課題であるのと似ているのではないだろうか。やはり、基礎は大切である。

でも、基礎的な体力つくりだけでは、飽きてしまう。メタボ対策だけでは、おそらく運動は続かないだろう。モチベーションの維持のためには、更に進んだ、楽しい課題設定が必要である。それが、私にとっては、フィギュアスケートであった。ただ、黙々と走るだけではつまらない。泳ぐのも、それほど好きではない。なので、氷上でジャンプする自分、軽快にステップを踏む自分を思い描きながら、そのために日々を頑張るという感じである。その副産物で、日常業務のスキルもあがっているのだと思う。

そういう意味では、フィギュアスケートでの技能向上は、私にとっては掛け替えのない夢である。どこまで行けるかはわからないが、これからも頑張っていきたい。でも、それは、ささやかな夢である。あまり膨らませても意味がないと、自分では冷めた思いで抱いている。その分、世界に出て行く選手達を応援したいのだが...。

”Training to be a Good Citizen”

これは、目的ではない。目的は、あくまでも体力の向上であり、技能の習得である。

「良き市民になる」のは、私の人生の目標であり、その一環として、フィギュアスケートをしているのである。だから、下手でも結構。一生懸命頑張る姿を通して、子供達に、リンクで楽しむ人たちに何かを伝え、楽しく安全なリンク環境の創出に寄与できればと願っている。

2009年7月14日 (火)

モホークターン

一昨日の日曜日、名古屋のリンクで練習した時に、リンクメイトのkomaさんにお願いして、モホークターンの撮影をした。基本的なステップの動画掲載は、コメントを寄せて下さったchiroさんからも依頼をいただいていたので、少しでも参考にしていただければ嬉しい。

とにかく、リンクが混んでいたので、10分間くらい撮影したなかから3つのファイルを選び、長さを調節してアップした。

モホークターンは、フィギュアスケートの基本中の基本のターンだと思うが、右→左or左→右と左右の足を踏み替えてフォアからバックに滑走姿勢を移すターンである。左右の足の踏み替えという点が、右足なら右足の片足滑走だけでフォア→バック、あるいはバック→フォアへと向きを変えるスリーターンなど(他にブラケット、カウンター、ロッカーもある)とは異なる。

モホークと同じように右→左or左→右と足を踏みかえるターンに、チョクトウがある。ちょっとマニアックな話になるが、モホークとチョクトウとの違いは、モホークがターンによってインorアウトのエッジを替えないのに対し、チョクトウはエッジが変わる。たとえば、イン・モホークの場合...右フォアイン→左バックインとインエッジなら前後ともインで滑るのに対し、チョクトウは...右フォアイン→左バックアウトとエッジのインorアウトが替わる。その結果、滑走方向に違いが出て、モホークはフォア→バックへ姿勢が変わっても同一円周上を滑るが、チョクトウはS字を描くようなトレースとなる。

このあたりのことは、ISIJテストを行っている、日本スケート振興会のサイトにある、アイススケート用語集の図形を見るとわかりやすい(リンクはこちら)。ただし、用語集の図形は、モホークとチョクトウ共にオープンである。私自身は、オープンモホーク クローズドモホークは習っておらず、下の動画のモホークはクローズドモホーク オープンモホークである。チョクトウは、今は先生からオープンチョクトウを教わっている。オープンとクローズドの説明は、煩雑になるし自信がないので割愛させて下さい。(通りすがりの者さんのコメントで、モホークを反対に覚えていたことがわかりました。訂正します。)

(オープンとクローズドをあいまいなままで記させてもらうが....) フィギュアスケートの場合、足の踏み方や体の向きだけでなく、自分がどちらの方向へ、どんなトレースを描くようにイメージするかが大事であることは、よく言われる。結果としてそちらの方向へ勝手に行くのではなく、滑走者のコントロール(いわゆるエッジワークもその一部だと思う)で滑走方向を決めるので、図形の意識はフィギュアスケートの要素でもあるかもしれない。なので、ターン図形はやはり覚えておいた方が上達のコツだと、私は考えているし、先生からも指導を受けている。

さて...そうは言っても、人で混みあっているリンクなので、思いっきりトレースを描くわけにはいかない。以前アップさせてもらったセミサークルと同じで、限られたスペースと技量での滑りなので、あくまでも、「参考になれば...(汗)」という気持ちでご覧下さい。

最初は、右足フォアからのモホークターン。右(フォアイン)→左(バックイン)と反時計回りにターンし、右(バックアウト)→左(バックアウト)とバック滑走をしていく。

本当なら、ターン後の右バックアウトの滑走をもう少し長くすれば、観ている人に安定感を与えられるはずだが、壁にぶつかる方向に滑っていたので、あわてて左バックアウトに踏み替えてしまった(汗)。

次は、左フォアからのもので、左(フォアイン)→右(バックイン)と時計回りにターンをし、次の左足はスケーティングレッグ(右バックイン)の前(腹側)へクロスさせアウトエッジで滑ってている。いわゆるモホーククロスだが、自分の左手側から男の子が近づいてきたので、滑走を止めてしまった。

もともと、左足からの時計回りモホークは、滑走方向に対して右方向へ弧を描くので、左から男の子が近づいてきてもそれほどあわてることはない。彼もそれを見越して私の方へ来たのだろうが...。あと、私がモホークを行っている手前で、小さな女の子が一生懸命練習しているのが、チョクトウである。左イン→右アウトのエッジに乗り切れずに体まで向いてしまっている。でも、きっと、すぐに出来るようになると思う。名古屋にはお手本になる、上手なお姉さん達が多いから。

最後に、komaさんが足元にフォーカスをあてて撮って下さった映像をアップしたい。右足からの反時計回りのモホーククロスだが、右(フォアイン)→左(バックイン)に続けて、右足をスケーティングレッグにクロスさせて右バックアウトで滑ると、バックからフォアに反転できる。ここからフリーレッグ(左脚)をフォアアウトで踏み出すのである。いわゆる、フォーステップという基本的なステップだが、一連の動きを”イチ・ニー・サン・シー”と4拍子でカウントしながら踏めるのが大切だと思う。これがきちんとできると、本当に楽しいし、音に乗るための幅が広がると思う。スリーターンでの3拍子(ワルツスリー)と同じくらい大切な基本ステップではないだろうか?

このステップで、クロスしてバックからフォアに反転して踏み出したフォアアウトのエッジを、すぐにインエッジに替えれば、反対回りのインモホークにつなげることができる。この、踏み出し後のエッジチェンジがスムーズなら、 時計回り→反時計回り→時計回り....と、 延々とモホーククロスだけのステップシークエンスができるのである。もちろん、単一ステップでの無限シークエンスなど実際のプログラムではナンセンスではあるが、逆に考えれば、それだけ汎用性の高いステップだと思われる。だから、すごく大切なステップではないだろうか?

2009年7月 4日 (土)

「鐘」に感じること

浅田真央選手の今シーズンのFSがラフマニノフの前奏曲第一番Op3-2「鐘」に決まったことはネットで知っていたが、どんな曲なのか聴いたことがなかった。今日はオフの日で時間があったので(前のエントリーに貴重な時間を使いすぎたが...)、聴いてみた。

曲自体は、名曲とネットで紹介のあったとおり、ピアノの音の余韻と輪郭とが絡み合う、素晴らしい曲だと思う(ピアノ曲は苦手なのだが...)。ただ、競技スポーツで採用されてしかるべき曲なのかという点で、疑問が残る。

真央サイドが何を目的として今シーズンに臨むのか、それによってプログラムの評価が変わるかもしれない。

観客との一体感で盛り上げて点数をあげていくつもりなら、こういう雰囲気の曲はまず選ばないと思う。シーンとした、咳ひとつ許されないような緊張の中で選手の一挙手一投足に注目させるのなら、この曲がふさわしいのではないかと思う。でも、演技が終わって緊張から解放された感動は、果たして点数に結びつくだろうか?緊張を呼び込む曲で観客を沈黙させるよりも、どんな曲であっても観客の方が固唾を呑んで見つめずにおれない、真央選手の魅力はそこにあったのではないか?

振付は、しやすい曲だと思う。音と音との間にステップやスケーティングを入れていけば、表現のスキルはあげていけるだろう。スピンも入りやすいと思うし、腕の使い方に余韻を残せれば、不協和音は演技の印象を高めると思う。

でも、ジャンプはどうだろうか?もちろん、入れることは可能だが、おそらくは、演技にアクセントをつける大きめのステップという位置づけになり、ジャンプそのもので魅せることはできないだろう。いわゆる、トータルパッケージ、作品全体の仕上がりで勝負という感じだと思う。

そうすると、トリプルアクセルはどうなるのだろう?

ここで一発! もう一つ!! というノリが許されない曲だと感じる。

おそらくは、冒頭の”ダ~ン!”と打つ部分で二つ入れるのだろうけど、音とジャンプの質・タイミングとが余程あわないと、チグハグな印象を与えるのではないかと危惧する。逆に、3Aを含むジャンプをことごとく、ステップを踏むように、曲調に合わせて決めたとしたなら、それは神の領域かもしれない。鬼門となるか、天国への門となるか、全くわからないが、プログラム中のジャンプの扱いが今シーズンの真央選手の運命を決めるように思える。

全くの想像だが、ここまで真央選手を追い込んでいるのは、キム・ヨナのPCSの高さかもしれない。ありきたりの曲では、彼女を越えることができない。限界を極限まで高め、考えられないような超絶技巧を曲に篭めなければ、PCSで負けてしまう。そういう真央サイドの切迫感を、「鐘」から感じた。

このエントリーの最初では、競技スポーツで採用されてしかるべき曲なのかという点で、疑問が残ると記したが、勝つための極限への挑戦だとしたら、それもスポーツなのかもしれない。ただ、次善の策を考えられるだけのゆとりも必用だと思うが...。もしも、このプログラムが思うように仕上がらず、ミス込みでの演技を余儀なくされたら、歯車の狂いは増幅されるかもしれない。昨シーズンの世界選手権で、キム・ヨナはおろか、ロシェット、安藤にまで遅れをとった結果の再現も考えられる。

目指すのは一番なのか、それともトップスリーなのか、あくまでもキムとの勝負にこだわった場合、負うリスクは高すぎるかもしれない。

あるいは、シーズン途中でFSを仮面舞踏会に戻し、エレメンツが限られているSPは勝負しやすいものにするというオプションもあるかもしれない。 (というか、「鐘」をSPにして、仮面をFSの方が私は良いと思うのだが....「仮面」違いだが、タラソワにはゲンの良いタイトルだし...) 勝負前での曲目変更が奏功したケースとしては、トリノでの荒川選手もある。もっとも、コーチまで変更というオマケは勘弁してほしいが...。

結論を言えば、神演技をしなければ、オリンピックで勝てないという真央サイドの切迫感を思わせる曲だと思う。でも、伝説が生まれるかもしれない。浅田真央とキム・ヨナ、名勝負を期待したい。

セカンドインパクトを小学生に経験した学生達

昨夜、レイトショーで”ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破”を観てきた。

ーーーーーーーーー以下、モロ ネタバレですーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーー以下、モロ ネタバレですーーーーーーーーーー

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その2日前の水曜日にも観たので、2回目だった。初めて観た時の感想は、なんだかわけわからん...だった。事前予告などは全然観ておらず、今回の新劇場版:破でどこまでストーリーが進むのか予想がつかなかったので、物語の全体像をつかむだけで、水曜日は終わってしまった。でも、映像と音響の造り込みは素晴らしく、迫力ある動きが大スクリーンから迫ってくるのは、やはりアニメ映画の醍醐味だと思う。だから、消化不良で終わった水曜日のうちに、日をおかずに見直すことを決めていた。

興味深かったのは、上映後のお客さんの反応。「全然違ってた」とか、「夢オチで終わるとかにならないよな...(四部作の結末についての予想だと思われる)」、「途中で気持ち悪くなった(女性の声)」などがチラホラと聞こえたが、多くの人たちが神妙な面持ちで静かに出口に向かっていた。およそ、デートには向かない映画だと思う。

”今日の日はさようなら”のところに至っては、観客への精神攻撃か?と思うくらいにダメージを感じた。映像そのものはエヴァだから許容できるが、小学生時代を思い出すであろうBGMをああいう場面で使わんでほしいと思う。二回目では慣れたが...。

”序”は、スケート仲間だった方や、A様と観に行ったりもしたが、”破”はお独り様向けの映画だと思う。せっかく誘ったのに感想が、「気持ち悪い」では申し訳ない。お互いにエヴァを知り尽くしているカップルとか...あるいは、熱狂的な綾波ファンとかなら別かもしれないが(昨年度の卒業した学生で一人居た。雰囲気が似ていると言ったら喜んでいた...レイに似てるって嬉しいことなのか今でも疑問だが...)。

2回観てディテールが少しわかってきた。あと5回は観るつもりだが。

”序”もそうだが、”破”でも映像が暗めで展開が速いので、使徒やエヴァのフォルムがわかり辛い。仮設5号機と第3の使徒との戦闘は、余程目をこらさないと、5号機の義手パーツや脚部の形を把握することができない。というか、予備知識がないと、とてもじゃないけどこんな姿(リンクはこちら)だなんてスクリーンから想像することはできないだろう。使徒は、ワケわからな感が不気味さを煽るし、どうせ色々な形に変化してしまうのでカタチはわかり難くてもいいけど、主人公であるエヴァのわかり難さは「何度でも劇場に足を運んで、繰り返し観て理解してください」という、営業的な戦略ではないかとさえ思ってしまう。

その戦略に見事にはまり、何度も劇場に足を運ぶつもりだが...。

二回目でやっと、第3の使徒のコアをつぶすと同時にエントリープラグが射出され、その直後に5号機(仮設)は自爆するという流れを観ることができた。初回は、なにがなんだかわからなかった。ついでに言えば、第10の使徒との戦いでも、ビースト化した2号機がATフィールドを破り切って0号機がN2航空爆雷(かな?)をコアに貫こうとするが、その直前に使徒はシールドを閉じてしまったので、2号機と0号機の連携がフイになり、0号機が捕食されるに至るというのも、なんとかわかった。ここも、初めて観た時には全然わからなかった。ただ、素体が晒された0号機があっという間に喰われたことに衝撃を受けるばかりだった。

そして、0号機(+レイ)を取り込んだ第10使徒がネルフ本部を攻撃した衝撃で転んでしまうシンジが、もう一度立ち上がる場所、あそこは、加持のスイカ畑だったのだろう。「ミサトを守ってくれ。それは、君にしかできないことだ。」と、焼けた蛇口が語っていたのに、2回目で気づいた。

最後だが...エンディングのクレジットも流れ切った後で、今回上映分のストーリーの結末に至るのは、いかがなものかと思う。カヲル君光臨で初号機によるサードインパクトが止められるという、肝心な部分を、クレジット途中で退席したお客さんは観ないままになってしまうではないか。もちろん、次回予告の「サービス サービス」が終わるまで席を立つ人はいなかったけど、”破”をひとつの作品として観た時には、終わり方の半端さが気になる。カヲル君に至っては、一度も名前が出てこないし。渚カヲル=使者オワリ=タブリスという設定は、新劇場版でも生きているのだろうか?名前が出ていないのだが...。

で、結局、そのあたりのことが気になって”Q”を待つのだろう。カネゴンとか出る予定はないですよね?

気になるといえば、初号機がシンジだけでなく綾波も取り込んだままで凍結と、次回予告で言っていたけど、そりゃなんじゃ?と思った。綾波とユイとの関連がいまひとつわからないのだが、雰囲気的には拒絶するんじゃないかと...。シンジとレイとの邂逅自体が仕組まれたものだったのを考えると、二人を巻き込んだ凍結にカヲルがどう絡むのかが気になってしまう。特に、「今度こそ君を幸せにしてあげる」というのは、旧世紀版での人類補完計画の失敗を意識しているのかな...と。時系列的には旧世紀版と並行しているはずだけど、実際には、旧世紀版を前提にして、この新劇場版を進行させているフシがある。未だに名乗っていないけど、カヲル君のことを観客が知っているのはお約束のようだし...。

結局、私達の視点は、加持のようなものかもしれない。

新しい世界に適応せねばならないのだが、旧い世界への思い出も捨てきれない。新劇場版はそれとして楽しみにしているが、旧世紀版との比較も楽しみたい。そういえば、”破”では携帯電話を当たり前のように使っており、”序”で大活躍だったカード型公衆電話は姿を消してしまった。”Q”では、スマートフォンとか登場するのだろうか?

旧作との比較やそれによる今後の展開予想ができるのも、私達が旧・新の両方に関する情報を持っているからである。もちろん、”Q”以降の情報は無いに等しいが、”序””破”と積み重ねた蓄積は大きい。そこに、旧作の知識を補完しながら、新しいエヴァ世界を脳内に構築しているのだろう。私達は、エヴァの世界では海が赤いことを知っているし、南極大陸が消滅してえぐれていることも了解している。でも、加持が語っているように、昔は海が青かったこと、磯や潮の香りに満ちていて、生物の営みがそこで育まれていたことも体験している。

同様なことだと思うのだが、今の学生達を見ていて非常に不安を覚えるのは、アナログ世界を知らないゆえの脆弱さである。

物心つき始めた頃にはコンピューターが世間にあった彼らの思考がデジタルかと問うなら、決してそうではないと私は言いたい。むしろ、思考パターンは非常にアナログチックであり、ドライな割り切りが苦手なようである。論理性に欠けるとも言えるが...。

私が指導している学生達は、学業のレベルでは高い水準を維持していた人たちばかりのはずだが、コンピューターには親和性を持っていないようである。実習の指導をしていて一番苦労するのは、情報処理をパソコンベースでできないことである。ワープロに打ち込んだり、エクセルに入力することはできるのだが、そこから抽象レベルの概念を抽出していく作業をパソコンを使ってできないのである。あるいは、エクセルで表を作らせようとしても、真っ白な画面にレイアウトを考えることができずに途方にくれている姿をよく見かける。

現在大学生である彼・彼女達は、エヴァの世界観で言えば、ジオフロントがセントラルやターミナルといった深化の構造になっているとか、あるいは24層の特殊装甲とか、更にはエヴァのエントリープラグ内の深度によってエヴァのパフォーマンスと精神汚染リスクとが増していくという、多層的構造を理解することは苦手だと思う。そういう、物事を構造として把握し、自分でも語っていくという訓練をあまりしていないようなのだ。

逆に考えると、私達はなぜ、エヴァ的世界構造を容易に受け入れることができるのであろうか?これは、少年期の頃から荒唐無稽な空想を頭に描く習慣があったことと関係があるかもしれない。しかも、荒唐無稽でありつつも、構造はしっかりとしており、その世界ならではの論理を了解してもいた。なぜなら、与えられた世界観は、大の大人が真面目につくりあげたものだったのだから...。

たとえば、マグマ大使、地下にはアースの基地があり、それは巨大ロボット人間が待機できる巨大空間であることを幼稚園の頃から知っていた。あるいは、ウルトラマン。なぜかは知らないが、宇宙には遠い星ぼしの危機を救ってくれるボランティア組織があり、兄弟間や親子間といった世代的な序列があり、それは(スポンサーがつく限り)拡大していくものであることも、子どもながらに理解していた。仮面ライダーにしても、まるでパラレルワールドのように悪の組織は幾つも並存しており、それに対抗してヒーローは何人でも生まれるし、シリーズを重ねるにつれて悪の組織は、更なる上部組織のもとで改変をしていくという、後付設定の摩訶不思議さをも柔軟に理解していた。

テレビを通して学んだのは、テレビの世界には、画面では満足に語られないけれども複雑な世界観(=制作上の設定)が背後にあるということであった。それらを子どもながらに受け入れ、一生懸命理解することで、現実的には在り得ないはずの、複雑な概念を当たり前のようにしてきたのだと思う。テレビや関連雑誌から仕入れたその手の知識を、口角泡を飛ばしながら友達と話してきた。そういう知識を雄弁に語れることがステータスであったとも言える。今思えば、すごい思考訓練だったかもしれない。

もちろん、今の学生達に友達付き合いとか、コミュニケーションスキルが足りないといいたいのではない。そんなつまらないことを言っても仕方ないし、彼らはそういう訓練の経験は十分受けている。自分が大学生の頃に比べても、今の学生達はセンシティブであり、ナイーブに思える。だから、礼儀正しいし、社交的でもある。

でも、抽象的な概念を生み出したり、操作したりする訓練には乏しいとしか思えない。現象を理解するためには欠かせない、物事を部分レベルで吟味しながら自分なりに構築していくという思考の訓練に関しては、苦手なのかなぁと感じるのだ。見たものを見た通りに表現したり、教わったものを教わったとおりに記述することはできる。あるいは、感じたことを素直に言い表す時には、生き生きとした表情もみせる。でも、そういう感想や既存の知識を一時留保して、物事を自分の脳内で組み立ててみる作業は、できないのだ。

具体例を言えば、心不全とその症状は勉強すればわかる。チアノーゼという現象がどんなものかも理解してくれる。でも、「心機能の低下によって体内の酸素化が不十分なために、末梢でチアノーゼが出現するのではないか?」という、”酸素化”という概念をイメージするのがどうも苦手なようだ。もちろん、この概念についてもできる限り説明を試みる。だが、私の知識の不足もあり、具体的記述のレベルでは、酸素化という概念を学生達がストレートに理解できるほどにはしっかりと説明できないのだ。申し訳ないのだが...。ここは、酸化ヘモグロビンが酸素を必要としている臓器に十分に供給(=運んで)している状態をイメージしてもらうしかない。この場合には物流のイメージが良く、例えば、以前は高速道路で遠隔地まで供給できていたのに、今は高速道路に渋滞が生じてしまって届くのに遅れが出てくるようになったとか...だが。

こういうビジュアルイメージが得意な世代と、苦手な世代があるように思える。いわゆるテレビっ子世代と、活字で空想を広げたそれ以前の世代ならば当然かもしれないのだが、現代の大学生世代がビジュアルを苦手とするのは、なぜなのだろうか?おそらく、彼らは、LCLが口や肺だけでなく、パイロットの手足や脳内にまで満ち満ちていくという充実感を、エヴァの映像からイメージすることはできないのではないか、とさえ思ってしまう。見たものをそのままでは感じるのだが、そこから現実世界へと発想を応用させるように仕向けても、反応が芳しくないのだ。

仕事との絡みで、その原因を色々と探っていると、彼らがセカンドインパクトの時に小学生であったことが大きいのではないかと思うに至った。この場合のセカンドインパクトとは、1999年のiモードサービス開始をはじめとした爆発的なIT化のことを言う。

現在20歳(大学2年生くらい)の人たちが10歳(小学4年生くらい)の時に、iモードをはじめとして、IT化の流れは奔流となった。インターネットそのものは、1995年のウィンドウズ95発売の頃から一般に普及していたが、ネットやメールが当たり前になった決定的な要因は携帯電話からのネット接続だと思う。だから、小学生の時からITの洗礼を受けてきた今時の若者は、思考や意思決定のツールとしてIT機器をバリバリ使えてしかるべきなのだと思う。ところが、少なくとも私が知見する限りでは、彼らは私達、旧世代以上にデジタルオンチなのかもしれない。「パソコンは苦手」と言う学生達の多いこと。実際、彼らのメモリスティックを見せてもらったりすると、壮年期のパソコンユーザーのように、あらゆるファイルがごちゃごちゃに詰め込まれている。階層フォルダによる分類が得意でないのだろうか(このあたりの実態は、是非調査したい)。

気の毒なのは、彼らが受けた教育なのだろう...。

いわゆる、ゆとり教育については語らない。不愉快なので。

ただ、おそらくはいっそう不愉快だろうけど、初等・中等教育での教員の質(デジタル文化だけに限るが)に問題があったと推測している。

デジタル機器に関しては、小学校時代に算盤(あれだって立派な計算機だし、非常にデジタルなアルゴリズムを持っている...と思う)しか教わらなかった私達の方がマシだったのではないか。実際にはデジタルディバイドの被害者なのかもしれない教師達から、中途半端にパソコンやIT技術を教わる破目になった子達は、本当に気の毒だと思わずにはおれない。

私達にとっては、パソコン(その前はマイコン)は夢の機器だった。中学・高校生の頃、友達と自転車でマイコンショップめぐりをして、ピカピカのキーボードに触った時のドキドキ感は、今でも覚えている。ショップに行けば似たような仲間達と出会えた。今のスケートリンクのような場所だった。

父が勉強用に買ったPC-8801を触らせてもらい、BASICの本を読んで動かしてみた時の楽しさも忘れられない。誰も教えてくれなかったから、自分でしたいように勉強し、頭を全力疾走させながらフローチャートを思い描き、そして自分のものにしていった。エヴァで言えば、貪欲に捕食し、取り込んでいったのだ。そういう独学で、タッチタイピングやフォルダ内へのファイル保存、書式設定など、初心者が苦労しがちな課題をクリアしていった。

でも、パソコンが当たり前の時代になるにつれて、パソコンは学校やスクールの教材、そして科目になってしまった。理科や算数みたいなものと同じなのかもしれない。実際、九九ができないと社会で生きにくいように、パソコンも初等教育で馴染んでおいた方が良いのかもしれないが、多分楽しくなかっただろう...。そういう感想を学生達からきいたことがある。しかも、教える教員も、パソコンに触れたのが社会人になってから(1999年に45歳だとすると、8ビットマイコン全盛の1980年代前半には30歳に手が届いていた。40歳を越えてからWIN95にワクワクできる大人は、どれくらい居るだろうか?)としたら、義務感で教えていたのかもしれない。今のようにパソコン教材も充実していなかっただろうし...。

結局、彼ら、IT化の爆発的膨張という、セカンドインパクトの渦中に小学生であった世代は、ITのスキルで言えば谷間に位置するのではないかと危惧する。私達のように、誰からも教えられずにパソコンを友達やビジネスパートナーとできた世代、そして本当の意味でのチルドレン達(1999年以降に生まれ、IT環境が整備されたなかで初等教育を受けられた世代)のはざまにあり、パソコンを苦痛に満ちた電子算盤、あるいは不恰好で時代遅れの大型ケータイとしてみているとしたら、こんな不幸なことはないだろう。

「勉強は楽しくないと身につかない」と、学生達には常々言っている。発想を豊かにしてほしいので、テレビを見るように、マンガを見るようにと伝えている。本ばかりでは、情報の間口は狭くて仕方ない。読まないのもマズいが...。大体、「本を読め」と言う大人達は、テレビのない世代に育ったのだから、彼らの言うテレビ有害説はあてになるわけがない。テレビを知らない子供達だった大人よりも、テレビから豊かな世界を教わり、映像から目には見えない世界観を頭に描く訓練をさせてもらった私達の世代こそ、テレビの有用性を語るべきではないだろうか?

実際、そういう世代のクリエーター達が幅をきかせているし。

「結局、私達の視点は、加持のようなものかもしれない。」と先に記したが、2015年に30歳となる加持に近いのが、2009年に成人となった現在の大学生達であろう。ただ、加持はセカンドインパクトの時には思春期を迎えていた。衝撃の影響は後の人格形成に傷を残しただろうが、起こってしまった事件の前後を客観的に捉える視点は持っていたのかもしれない。反面、現実世界でのセカンドインパクトである1999年以降のIT化については、現在の大学生達はその前の世界を知らずにいる。彼らは、コードにつながった黒電話も知らないだろうし、レコードも知らない。物心ついた時にはパソコンは当たり前であり、学校で習う課題であった。放っておけばすぐに時代遅れとなり、使い物にならなくなる学校の備品に魅力を感じろという方が無理だろう。混乱の渦中を、前の時代と比較して受け止められた世代と、全然理解できないままに進まされた世代...。加持との4歳の違いは、実は途方もない世代間ギャップを生んでいるかもしれない。

私自身は、2015年には50歳になる予定であり、世代的にはゲンドウとほぼ同じである。旧世界からの変貌を受け入れ、身を施す術も考えてはいる。おそらくは、現在も、今後も手足のようにIT機器を使っていくだろう。「使いこなせるか?」は別だが、要求されている仕様やスペックに応えねばならないとも思わない。私にとってパソコンは、コミュニケーションツールであるのはもちろんだが、それ以前に、思考支援ツールである。自分で考え、思考としてまとめ、表現する。そのための機器であり、そのためのスキルを人からではなく、自分で学んできた。そういう自負がある。

そして、現在小学生である、本当の意味でのチルドレン達、彼らがIT機器にスイッチを入れている現在は、教育環境も充実しており、ちょうど私達が家電製品を当たり前のように使っていたのと同じ、あるいはそれ以上に自在に機器を使っていくだろう。今年高校生になった甥のプレゼン作品を見ていると、内容の若々しさは置いておくとしても、表現の巧みさと精緻さには驚きを覚える。手足どころか指先としてパソコンを使い倒している。今の大学生達のどれほどが、高校生になったばかりの甥以上のスキルを持っているだろうか?これこそ、個々の才能というよりも、世代間ギャップによるものだと思う。子供達にとっては、1999年付近の1年の違いは、その他の時代の5年の違いに相当するかもしれない。あそこには、明らかに爆心地があったようだ。初等教育の質の違いは、これから大人となる人たちにとっては大きなディバイドとなるのではないかと心配している。

さて、少しエヴァ脳から離脱して、現在指導している学生達のことだけに絞るが、私がやらなねばならないのは、IT化の流れへと慣れていくための支援であろう。私の専門である、老年看護学の領域でもIT環境を整備したうえで仕事するのは当たり前である。私と同じくらいの女性スタッフでも、自在に文書や表を作成するし、報告書はサーバーから書式を呼び出してくる。そういう、業務上の作業に違和感を覚えないのは当然だが、学問として看護を学ぶ以上は、思考支援ツールとしてデジタル機器を使えねばならない。

自分の頭の思考を見えるカタチに表現できないとしたら、何のための学問なのか?

.例えば、他者にわかってもらうために、どんな情報を表にまとめるか? 思考のプロセスを理解してもらうためのツールとして何があるか? それらを一生懸命考えてもらわねばならないし、私も工夫し続けねばならない。特別な研究報告とか手順書とかではなく、日常的な思考や情報の共有のツールとして、パソコンが使えなければいけない。

少しだけ専門的な話になるが、看護診断はセカンドインパクトにはなり得ない。思考プロセスが脆弱だから。大切なのは、診断ラベルを自分で産み出せる力である。それでも、”敢えて”既存の診断ラベルと照らし合わせて、そちらに表現を譲るとしたならば、それは素晴らしいことだと思う。そして、その過程は協働者達に理解してもらわねばならない。なぜ、その診断ラベルを適応するのか、その基準と妥当性の検証は、共同作業として続けなければ、看護診断は陳腐なスローガンに堕するだけだろう。(私としては、その方が好都合だが,,,)ITとは、そういうものだろう。常にブラッシュアップせねばならない。情報も思考も生鮮食料品と同じくらいの扱いでちょうど良いのだ。

そのような、フレッシュな思考過程を、皆で共有できる可能性が持てたことが、IT革命だと、私は思うのである。ブログやwikiはその典型例だが...。新鮮な食材を全国隅々にまで供給できるようになったのが物流革命とするなら、人々のフレッシュな思考を多くの人たちが共有・保存できるようになったことこそ、IT革命のはずである。写メールで切り取った一瞬や、思い出のデコメール、思いの丈を綴ったブログ、今までだったら風化してなくなってしまいそうな一瞬のひらめきが、ITによってカタチにでき、分かち合える。

そういうスキルを、社会で生かすようになってほしい。IT革命の混乱の渦中に初等教育を受けた、現在の学生達もである。彼らが社会人になった時に困らないように、精一杯の応援をしていきたいと思うのである。決して彼らはIT革命の申し子ではない。もう一度エヴァの話に戻れば、彼らは日向マコト(2015年に24歳)などNERV本部のオペレーターに近い世代だと思う。意志決定は上層部に委ね、前線はチルドレン達に託さねばならない、微妙な存在ではある....でも、彼らの働きがなければ事は動かないだろう。

映画では、第10の使徒にセントラルドグマが破壊された後も、モバイルパソコンで初号機をモニターし続けたマコトの根性に感動した。ああいう、真摯で強靭な遂行能力を、是非学生達にも伝えたいものである。そのためには、私自身がもっと進化せねばならない。

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