ISUは何を目指す
なるべく建設的な意見をと心がけてはいるが...フィギュアスケートという競技は面白みを失っていると私は感じる。
個人と個人のぶつかり合いという面では、面白い。例えば、浅田真央選手とキム・ヨナ選手の対決は今後も続くだろうし、お互いに高めあっていけば素晴らしいことだと思う。そこに、ジュニアで世界を席巻しているアメリカの若手がシニアに上がってどこまで上位に食い込むのか、それも注目する。男子でも、ジャンプ、スピン、ステップ、スケーティングのそれぞれに個性を発揮する選手達がおり、とても楽しみだ。アイスダンスも素晴らしい競技だと思うし、各国の世代交代は見守っていきたい。
しかし...シングル競技だけに語る範囲を絞るが、ジャッジングシステムの変更が重なるにつれて、観客の印象とジャッジの採点との乖離が大きくなっているのではないかと感じる。それを顕著に感じたのは、今シーズンの世界選手権。特に、中野友加里選手のフリースケーティングでの得点表示だった。演技中と演技直後は会場は大いに沸いた。スタンディングオベーションで讃えた観客も居た。だが、得点表示ではブーイングが起こった。それは、観客の評価に反したジャッジへの抗議であったと思う。演技中、観客は高評価を拍手や歓声で示したのに、採点の権威を有するジャッジがそれに反した得点しか出さなかったら...その不一致はブーイングだけで済むものだろうか?
彼女への低い得点表示は、実は、彼女を評価した観客にも向けられていると私は考えている。「あなた達は評価しているみたいだけど、専門家から見たらこんなものよ」と、電光掲示板は語っていたのではないだろうか?沸いた分だけ、得点表示で白けさせられる、そんな懸念を私は抱いている。
フィギュアスケートのマニアならば、「実はね、彼女の演技は...」と見た目の印象と表示された得点との齟齬について、解説できるかもしれない。「なんであの演技で点数が出ないの?」と大会翌日に職場の同僚に解説を求められた経験は、私にもある。あるいは、大会後に公開される採点の内訳(プロトコル)を見て、回転不足やレベルの取りこぼし、あるいはザヤックルールへの抵触などを知って納得できるのかもしれない。
でも、勝敗の理由を納得するのに、かなりの知識と時間を要するスポーツってなんなんだろう?と素朴に思う。
現在話題になっている、5種類のジャンプを跳び分けたらボーナス点加算というルール案だが、完全に観客をおいてきぼりにした案だと感じる。電光掲示板やテレビ画面の端で、既にこなした3回転ジャンプの種類を表示してくれるなら別だが、生の演技中にジャンプを見分け、5種類を全て跳び分けたか否かを理解できる観客がどれくらいいるのだろうか?これに、回転不足でのダウングレードまで考えると、単に跳び分けが見分けられるだけでなく、3回転と認定されたか否かの判断までしなくては、得点評価の予想がつかなくなる。要するに、自分の目で見た印象ではなく電光掲示板に出た点に評価を委ねるしかなくなるだろう。更に、ロングエッジ判定まで加わったら、プロトコルが公表されるまではブラックボックスに等しいだろう。
新採点システムは、採点基準の明確化を目指していたはずだ。プロトコルの公表はその意味で画期的だと私も思う。だが、採点方法の複雑化によって、演技の見た目の印象と得点の積み重ねとの乖離がはなはだしくなった。このため、プロトコルを見ないと納得できないという現象を生んだのではないだろうか?
要するに、演技中の自分の印象は信じられない。ならば、ルールを熟知し、演技中にジャッジの得点経過を推測することに精力を費やすべきか? そこまでしないと、フィギュアスケートは楽しめなくなるとしたら、どれだけのファンがついてくるだろうか? マニアには楽しい、でも、素人にはついていけない、そういう競技にフィギュアはなるのだろうか?
こと、自分で滑ることについては、このブログも私自身もマニアックだと思う。少なくとも、観ることを楽しまれる方には、このブログは全然面白くないし、つまらないと思う。申し訳ない話だが...。だが、浅田真央選手の笑顔、それには理屈はいらない。彼女が跳び、滑り、回る、それだけでワクワクするし、幸せになれる。スポーツというのは、本来はそういう自然な心持ちに訴える楽しみなのだと思うのだ。あるいは、ジュベールの頑なまでなこだわり、高橋大輔選手の真摯な艶やかさ、そういう個性が爆発したところにスポーツの醍醐味があるのではないだろうか。
だからこそ...e判定をものともせずに真央選手が世界チャンピオンになったことには意義があると思う。あるいは、最後の粘りでコンビネーションジャンプを跳んでしまったがために表彰台を逃してしまった高橋選手に空しさを感じる。そう、空しいと私は思う。あの時点でコンボやシークエンスの回数制限なんて、計算しても空しいだけだ。たとえ0点だとしても、より高得点を目指した高橋選手の頑張りに、私は心から拍手を送りたい。
だが、ルールが複雑になれば、そういう個性は排除される方向には行かないだろうか?観る方も大変だが、滑る方はもっと大変だ。高得点を生む出すアルゴリズムを見つけ出し、それをトラブルなく実行できる、そういう努力ができるスケートマシーンが勝つ、そういう競技にはならないだろうか?結局のところ、ISUはジャッジングシステムに適ったプログラム通りに演技する、正確なプレーヤーを求めているのかもしれない。不測の事態、例えば転倒とか、回転不足とか、あるいは特別な拘りを持っての挑戦とか、そういうものはフィギュアスケーターには要らないということなのだろうか? だったら、演技内容は全競技者同一なものとして、スタンダードに一番適合した演技者を優勝にしたら良いと思う。コンパルソリのような感じで。
もう少し突っ込むと、フィギュアスケートの文化がそれを要求しているのかもしれない。よく目にする「癖のないジャンプ」 あるいは 「基礎がしっかりしている」 そういう欠点のない演技をするものが理想とされる文化をフィギュアには感じる。でも、人は本来そういう存在なのだろうか?”無くて七癖”は、人のあり方を示唆する真理だと私は感じる。悪い癖は直すに越したことはない。それでも、「無くした」と思ってもまだ七つも残っているのが人間ではないだろうか? 基礎にしても、それは永遠に追求するものであり、誰が十分と言える領域に到達し得たであろうか。逆に言えば、各国の代表とされる選手達は一定の技術レベルを有しているはずであり、それらの選手達に基礎的技術の有無を問うのはあまり意味がないとも思える。
結局のところ、欠点が無いようでも実はある、あるいは欠点がありつつもそれを赦してもらえるだけの魅力も有する、それが人間ではないだろうか。だから、エッジが間違っているだとか、全てのジャンプを跳べないといけないとか、そういう文化はあまり人間的ではないと私は考えるのである。
予測できるのは、フィギュアスケートでは、人間的なドラマが生まれる余地が狭まるだろうということだ。もちろん、まだ何も決まっていないし、今後の決定次第では、観ている側も滑る側との感動を共有できる競技であり続けるかもしれない。そのためにも、心配しているのは、ISUが何を目指してルール作りをしているか、ということである。ルールの複雑化は観客の期待を裏切る結果を招きかねない。楽しむためには、高度な見識と努力を要するというのであれば、マニアのためのスポーツから脱することはないかもしれない。そして、滑る側も人間であるという単純な事実、これは決して忘れてはならないと思う。
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