« 2008年2月 | トップページ | 2008年4月 »

2008年3月

2008年3月30日 (日)

ISUは何を目指す

なるべく建設的な意見をと心がけてはいるが...フィギュアスケートという競技は面白みを失っていると私は感じる。

個人と個人のぶつかり合いという面では、面白い。例えば、浅田真央選手とキム・ヨナ選手の対決は今後も続くだろうし、お互いに高めあっていけば素晴らしいことだと思う。そこに、ジュニアで世界を席巻しているアメリカの若手がシニアに上がってどこまで上位に食い込むのか、それも注目する。男子でも、ジャンプ、スピン、ステップ、スケーティングのそれぞれに個性を発揮する選手達がおり、とても楽しみだ。アイスダンスも素晴らしい競技だと思うし、各国の世代交代は見守っていきたい。

しかし...シングル競技だけに語る範囲を絞るが、ジャッジングシステムの変更が重なるにつれて、観客の印象とジャッジの採点との乖離が大きくなっているのではないかと感じる。それを顕著に感じたのは、今シーズンの世界選手権。特に、中野友加里選手のフリースケーティングでの得点表示だった。演技中と演技直後は会場は大いに沸いた。スタンディングオベーションで讃えた観客も居た。だが、得点表示ではブーイングが起こった。それは、観客の評価に反したジャッジへの抗議であったと思う。演技中、観客は高評価を拍手や歓声で示したのに、採点の権威を有するジャッジがそれに反した得点しか出さなかったら...その不一致はブーイングだけで済むものだろうか?

彼女への低い得点表示は、実は、彼女を評価した観客にも向けられていると私は考えている。「あなた達は評価しているみたいだけど、専門家から見たらこんなものよ」と、電光掲示板は語っていたのではないだろうか?沸いた分だけ、得点表示で白けさせられる、そんな懸念を私は抱いている。

フィギュアスケートのマニアならば、「実はね、彼女の演技は...」と見た目の印象と表示された得点との齟齬について、解説できるかもしれない。「なんであの演技で点数が出ないの?」と大会翌日に職場の同僚に解説を求められた経験は、私にもある。あるいは、大会後に公開される採点の内訳(プロトコル)を見て、回転不足やレベルの取りこぼし、あるいはザヤックルールへの抵触などを知って納得できるのかもしれない。

でも、勝敗の理由を納得するのに、かなりの知識と時間を要するスポーツってなんなんだろう?と素朴に思う。

現在話題になっている、5種類のジャンプを跳び分けたらボーナス点加算というルール案だが、完全に観客をおいてきぼりにした案だと感じる。電光掲示板やテレビ画面の端で、既にこなした3回転ジャンプの種類を表示してくれるなら別だが、生の演技中にジャンプを見分け、5種類を全て跳び分けたか否かを理解できる観客がどれくらいいるのだろうか?これに、回転不足でのダウングレードまで考えると、単に跳び分けが見分けられるだけでなく、3回転と認定されたか否かの判断までしなくては、得点評価の予想がつかなくなる。要するに、自分の目で見た印象ではなく電光掲示板に出た点に評価を委ねるしかなくなるだろう。更に、ロングエッジ判定まで加わったら、プロトコルが公表されるまではブラックボックスに等しいだろう。

新採点システムは、採点基準の明確化を目指していたはずだ。プロトコルの公表はその意味で画期的だと私も思う。だが、採点方法の複雑化によって、演技の見た目の印象と得点の積み重ねとの乖離がはなはだしくなった。このため、プロトコルを見ないと納得できないという現象を生んだのではないだろうか?

要するに、演技中の自分の印象は信じられない。ならば、ルールを熟知し、演技中にジャッジの得点経過を推測することに精力を費やすべきか? そこまでしないと、フィギュアスケートは楽しめなくなるとしたら、どれだけのファンがついてくるだろうか? マニアには楽しい、でも、素人にはついていけない、そういう競技にフィギュアはなるのだろうか?

こと、自分で滑ることについては、このブログも私自身もマニアックだと思う。少なくとも、観ることを楽しまれる方には、このブログは全然面白くないし、つまらないと思う。申し訳ない話だが...。だが、浅田真央選手の笑顔、それには理屈はいらない。彼女が跳び、滑り、回る、それだけでワクワクするし、幸せになれる。スポーツというのは、本来はそういう自然な心持ちに訴える楽しみなのだと思うのだ。あるいは、ジュベールの頑なまでなこだわり、高橋大輔選手の真摯な艶やかさ、そういう個性が爆発したところにスポーツの醍醐味があるのではないだろうか。

だからこそ...e判定をものともせずに真央選手が世界チャンピオンになったことには意義があると思う。あるいは、最後の粘りでコンビネーションジャンプを跳んでしまったがために表彰台を逃してしまった高橋選手に空しさを感じる。そう、空しいと私は思う。あの時点でコンボやシークエンスの回数制限なんて、計算しても空しいだけだ。たとえ0点だとしても、より高得点を目指した高橋選手の頑張りに、私は心から拍手を送りたい。

だが、ルールが複雑になれば、そういう個性は排除される方向には行かないだろうか?観る方も大変だが、滑る方はもっと大変だ。高得点を生む出すアルゴリズムを見つけ出し、それをトラブルなく実行できる、そういう努力ができるスケートマシーンが勝つ、そういう競技にはならないだろうか?結局のところ、ISUはジャッジングシステムに適ったプログラム通りに演技する、正確なプレーヤーを求めているのかもしれない。不測の事態、例えば転倒とか、回転不足とか、あるいは特別な拘りを持っての挑戦とか、そういうものはフィギュアスケーターには要らないということなのだろうか? だったら、演技内容は全競技者同一なものとして、スタンダードに一番適合した演技者を優勝にしたら良いと思う。コンパルソリのような感じで。

もう少し突っ込むと、フィギュアスケートの文化がそれを要求しているのかもしれない。よく目にする「癖のないジャンプ」 あるいは 「基礎がしっかりしている」 そういう欠点のない演技をするものが理想とされる文化をフィギュアには感じる。でも、人は本来そういう存在なのだろうか?”無くて七癖”は、人のあり方を示唆する真理だと私は感じる。悪い癖は直すに越したことはない。それでも、「無くした」と思ってもまだ七つも残っているのが人間ではないだろうか? 基礎にしても、それは永遠に追求するものであり、誰が十分と言える領域に到達し得たであろうか。逆に言えば、各国の代表とされる選手達は一定の技術レベルを有しているはずであり、それらの選手達に基礎的技術の有無を問うのはあまり意味がないとも思える。

結局のところ、欠点が無いようでも実はある、あるいは欠点がありつつもそれを赦してもらえるだけの魅力も有する、それが人間ではないだろうか。だから、エッジが間違っているだとか、全てのジャンプを跳べないといけないとか、そういう文化はあまり人間的ではないと私は考えるのである。

予測できるのは、フィギュアスケートでは、人間的なドラマが生まれる余地が狭まるだろうということだ。もちろん、まだ何も決まっていないし、今後の決定次第では、観ている側も滑る側との感動を共有できる競技であり続けるかもしれない。そのためにも、心配しているのは、ISUが何を目指してルール作りをしているか、ということである。ルールの複雑化は観客の期待を裏切る結果を招きかねない。楽しむためには、高度な見識と努力を要するというのであれば、マニアのためのスポーツから脱することはないかもしれない。そして、滑る側も人間であるという単純な事実、これは決して忘れてはならないと思う。

2008年3月15日 (土)

バーチャルにハマることへの危機

amazonで注文した”Yoのけそうぶみ(鷹野陽子著)”が来た。

Wikipediaでマイクロソフトの記事を読んでいる時に、西和彦氏の記述があり、それで思い出した本だ。元は月刊ASCIIに1982年から著者が大学を卒業する1985年3月までの間連載されていたエッセイ風のコラムで、私も高校生から大学生の頃だったので、楽しく読ませていただいていた。一度友人から借りて読んだことがあったので、単行本化されていたことは知っていたが、まさか、20年が経った(単行本の初版発行は1987年)今になって、ネット経由で手に入るとは考えてもみなかった。しかも、amazonのサイト内検索一本で...。

心に残った一文を引用すると...

p.23

そう考えてみると、コンピュータ社会と、それ以前の社会とのさかいめにいる私達は、重要なキーを握っていることになるのではないかしら。いろいろな選択をする時にまだ、心の中にある何かをかかえた私たちだからできることがあるはずです。(斜体部分は、原文では傍点)

確かに社会は急速にコンピューター化していった。でも、当時の著者が想像していたほどには、20年後の現在もコンピューターは浸透しなかったのかもしれないとも思う。私の職場の学生に尋ねても、自宅にネット環境の整ったパソコンは置いてあるが、WordやExcelを日常的に使ってはいないらしい。mixiには参加するが、ブログを自らは立ち上げない。携帯とのにらめっこはするが、思考支援のツールとしてパソコンを持ち歩くことは考えていない。そんな感じのようだ。だから、Googleは知っていても積極的にわからないことを検索するほどではないらしい。学生に看護に関する基本的な質問をしたら、「わからないので図書館で調べます」と返答され、私の方がとまどった経験を最近した。

もっとも...ネットに頼りすぎている自分よりも健全で安全なのかもしれないが...。

20年前(当時はパソコンという用語はなく、マイコンと呼ばれていた。マイクロソフトの”マイクロ”もマイコン=マイクロコンピューター から来ているらしい)の想像ほどには、人々がコンピューターと馴染まなかった理由の一つは、パソコンよりも情報のやり取りが容易にできる携帯デジタルツールが次々と登場したためだろう。その最たるものが、携帯電話だと思う。iモードなど、携帯電話とインターネットとの相互乗り入れは、パソコンの最大の普及理由を解消してしまったと私は思う。携帯電話で文字や画像を送れ、ネットを閲覧し、そして情報発信までできるのなら、わざわざパソコンを持つ理由はないと考える人たちがいてもおかしくはないと思うのだ。

あるいは、”Yoのけそうぶみ”に、ホームアプリケーションによって台所にパソコンが置かれるようになるとの内容があるが、読んでいて”DS”のことを思い出した。わざわざ場所をとるパソコンを置かなくても、DSの”しゃべる! お料理ナビ”を使えば事足りるかもしれない。もちろん、無線LANと小型のパソコンを使ってネットでレシピ閲覧という主婦もいるだろうが、マジョリティーを占めるほどではないだろう。その他、携帯プレーヤーなど小型のデジタル機器の発達には、もう私はついていけない。アップルは、デジタルハブとして、パソコンをそれら携帯機器の情報コントロールの中心に据えるイメージであったようだが、通信機能や小型の情報媒体(miniSDカードなど)が発達すれば、パソコンを介す必要はどんどんなくなっていくだろう。

結局のところ、パソコンとは、手ごろな大きさの入出力装置を持つ機械というだけなのかもしれない。音楽も、動画も、コミュニケーションも、別にパソコンがなくても不自由せずにできる。ただ、打ち込みや閲覧には手ごろな大きさの道具の方が楽なので、机に向かう時にはパソコンを立ち上げているだけなのかもしれない。

そう思っていて気がついた。高校生の頃にPC8800シリーズでBASICを覚えた私なぞ、ちょっと遅れ(基盤の頃やPC8001登場の頃を知らない)のマイコン世代だが、そういう私たちこそ、著者の言う、「以前の社会とのさかいめにいる私たち」なのだろう。ただ、以前ー以後を分けるのは、著者のいうコンピューター化以前とそれ以後ではなく、電算機器のダウンサイジング以前と、それ以後なのかもしれない。マイコン(→パソコン)は、新しい世界の到来を告げる未来の機械ではなく、古くからあった電算機の最終改良機(小型・高性能化)にすぎず、特化された機能においてはパソコンに匹敵する携帯機器こそ、「それ以前の社会」と別れを告げたツールなのかもしれない。

だから、今の学生達が別にパソコンをいじらなくても当然なのだろう。むしろ、iPODや携帯電話での音楽や動画の扱いに詳しく、従来の音楽アルバムの概念を破壊するほどに新作の断片的な取り込みに熱心、でも学術的な知識習得法に関してはむしろ保守的(知的産物のデジタル化の作業は旧世代の仕事なのかもしれない)で、当たり前なのかもしれない。

もっとも、実務の世界では旧世代である我々が依然として幅をきかせているのだから、社会人のたしなみとしては、パソコンをいじれるようになることを求めるわけなのだが。

さて、そんなことを思う私が改めて、鷹野陽子氏(とうに結婚されて姓は変わっているようだが)の、「心の中にある何かをかかえた私たちだからできることがあるはずです。」という言葉をかみしめた時に、何を思うか?

やはり、ネットコミュニケーションやマルチメディアに夢を抱いた頃を大事にしたいということだ。月刊ASCIIの巻頭言で、(多分)西氏が将来のビジョンとして、コンピューター入力した文字情報を、紙に出力することなく多人数に共有できるシステムを描いた文章があったと記憶している。まだ、電子メールという言葉も知らず、LAN(ローカルエリアネットワーク)が一部の先進的な企業内で始まったと聞いたばかりの頃だったと思う。その頃の(なぜか今でも)オフィスの花形機器であったコピーやファックスをしなくても文章を多くの人たちに送れるというそのアイディアに私はびっくりした。

あるいは、WINDOWという概念で、複数の作業を一つのパソコン上で行えるという記事(今思うと、パルアルトのゼロックス研究所の成果の紹介だったのではないか?)を夢物語のように読んだこともあった。作成したドキュメントをプリントアウトしている間に、次のドキュメントの作業を始められるというだけでも、信じられなかった時代だった。

あの時代からしばらくの間は、人々はリアルワールドをバーチャルなデジタル世界に落とし込む作業に熱中していたのではないだろうか。そして今、例えばブログでエントリーをアップして、あるいは自分で動画を投稿して、一般の人々もデジタル世界で自分を簡単に表現できるようになってしまった。

でも...SOREHA,HONNTOUNO,ZIBUN,NANO?

懺悔すれば、ニフティの企画でフィギュアの撮影を続けている中で、ブログで語る自分と実際に滑っている自分の姿との乖離の大きさに愕然としてしまった。ブログでうそをついた覚えはない。陸トレを一生懸命やり、プールにも熱心に通ったことは確かだ。今までできなかったこと、跳べなかったジャンプが跳べるようになったのも本当だと思う。でも、映像(これ自体デジタルで記録されたものだが)に映る自分と、ブログで語った自分の滑りとは、やっぱり違っていると思う。

「すごい不恰好」 映像の自分を見て正直に感じた。

その動画をネットで晒すことは憚るが、ネットでの語りが熱心になればなるほど、バーチャルな自己像が一人歩きするのだと激しく反省した。演技会や大会の都度、自分の演技を見返して、現実を把握しているつもりだったが、語りと実像とは乖離しやすいことを忘れていたことを、懺悔したい。

結局のところ、時代は逆の作業を求めているのかもしれない。

サイバー世界というか、デジタルなメディアによって生まれたバーチャルな自己像を、リアルな自分と折り合いをつける作業。例えば、ハンドルでのネットコミュニケーションと、リアルでの人間関係との問題もそうなのだが、二つの世界での乖離や軋轢をいかにマイルドなものにするか?そこに着手しないと、後々苦労するのかもしれない。こういった問題は、パソコン通信の頃から感じてはいたのだが...。

やはり、「自分」はバーチャルになってはいけないと、強く思う。自分の課題を弁え、それを言葉(公言しないとしても)にできる勇気、私はそれを失いたくない。何よりも、自分や他人が流した汗、その重みを忘れないようにと思う次第だ。

ネットコミュニケーションに夢を託し、ネットを通じて楽も苦労も、失敗も、そしてささやかな成果も、享受してきたからこそ、それ以前からずっと生きてきた「自分」との連続性を失ってはならないと考える。それが、「何かをかかえた私(たち)」である自分の拘りだと思う。

スケートに関して、このブログでは、なるべく正直に語っていきたい。語るのも、語られるのもハンドルである”ねくすと”であり、それ以外のものではない。リアルの私を知らない方にも、知っている方にも、なるべく違和感のない文面にしたいと願っている。

そのためにも、「できた」 「できるようになった」 という表現よりも、不恰好な自分、出来ない(あるいは「出来たと思ったけどそれほどではなかった」)という自分を語るように心がけたい、特に今後は...。それでも、リアルとバーチャルとが乖離する部分はあるだろう。そこは、「笑ってごまかす」(by COBRA)しかない スミマセン。なるべく、ハマらないように努力します。

2008年3月14日 (金)

<ATC2K>車窓より

カテゴリーでは、”フィギュア以外”としましたが、少しは関係があります。

現在、私は複数のリンクに通っていますが、そのうちの一つに自家用車で行く途中の景色を映しました。撮影には、モニター企画のアクションカムATC2Kを使用しております。運転中は前方の風景しか見られない(それも美しいですが)ので、今回はナビの液晶モニターに付属アタッチメントのハンドル用クリップをはさみつけ、助手席側の横の窓からの景色を撮れるようにしました。

富士急ハイランドでの撮影でも気がついていたのですが、光の加減でハレーションというのでしょうか、白色に色が飛んで映らない部分が出てしまいます。でも、角度を変えるとピントが変わるのか、今度は映ってみたり。狙った画像を撮るのは大変ですが、「あ、映った」と遊び感覚で見ている分には面白いかもしれません。

撮影は、結構苦労しました。試し撮りでは窓ガラスの映りこみが気になったので、ガラスは下ろして窓を開放して撮りました。あと、車の振動でレンズ側の端がどんどん下がってしまうので、途中で手で角度を変えております。片手はハンドル、もう一方はカメラを支えてと、時速80kmの走行中でしたので、かなり神経を使いました。

でも、なんとなく、面白い動画になったのではないかと、自分では思っています。

(追記)

橋を上りきり、下がり始める少し前のところで、ほんの小さく、2羽の鳥が海原へと向かって飛んでいきます。それを見つけた時、なんとなくホっとしました。

2008年3月13日 (木)

これからの私

今朝、夢を見た。

大会後のブリーフィングルームで、自分の靴のブレードが折れている夢だった。動揺している私に、優勝者の女性が言い放った。

「落ちるブレードを手で掴めるくらいにならないといけないよ」

意味不明な夢であり、言葉だが、元ネタは推測できる。投資の格言で、「落ちるナイフは掴むな」というのがある。急激な下落をしている銘柄は、(例え値ごろだと感じても)手を出すな、という意味と理解している。

でも、夢は正反対のことを私に要求していた。解釈は様々だし、夢は夢でしかないのだが、痛みやリスク覚悟で仕事をせねばならないこともあると、私は理解した。それが、選手というものかもしれない。彼女、彼らはそうして成長していったのだろう。

私は、選手(いちおう県連に登録されている)からは足を洗うことにした。もう、大会を目指しての努力はしない。やはり、落ちるナイフを掴むだけの度量は自分にはないと思う。安全に配慮し、最悪の事態になったとしても許容可能な損害にとどまるようなポジションに自分をおき続けるだろう。

フィギュアスケートについても、正直、複雑な思いを抱いている。その思いをこぼせば、文面が荒れるので自重するが...。

ただ、ひとつだけ誇れることがある。本当に沢山の方々にお世話になってきたことである。幸運にも恵まれ、その中には世間の多くの方々に認知されている選手達やコーチもいらっしゃる。心から感謝している。

なので、自分が進むべき役割は、なんとなく意識している。一人の大人として、今後も参加させていただけたらと思う。自分の職業では、”ロールモデル”としての行動を要求されているし、その面で厳しいお叱りを受けたこともある。思うに、現在のフィギュアスケートに求められるのも、”大人としてのロールモデル”ではないか?

ブームの影響で、初心者から選手へと目指す子供達は爆発的に増えている。地方大会の初級・1級・2級のエントリーを見れば一目瞭然だ。男子も増えている。でも、この増加を良い方向にコントロールできる役割の大人が足りなければ、混乱が待っているかもしれない。インストラクターの数は限られているが、フィギュアを愛する大人たち(もちろん親御さんが主だが)の理性と知恵が、必要とされているのではないだろうか?

最近、私がお世話になっていた初心者スケーターが怪我をした。ルールを守らずにジャンプ練習をしてのことということで、本当に悩んだ。なぜ、大人がルールを無視するのか...そこまでして上手になってどうなるものなのか...?気持ちはわからない。

確かに、私は恵まれていた。毎日のようにリンクに降りられるし、貸切練習で思う存分ジャンプもスピンも練習できる。だから、ルールを守らずに練習しようとする大人の方々からすれば、言い分もあるのかもしれない。

でも、ジャンプやスピンができて、ナンボのもの?人として役割をとって生きることの方が大事じゃないの?と本気で思う。子供達でさえ、我慢して練習を自粛している中で、大人達が監視員の目を盗んでルールを破る。それで、健全な選手育成は果たせるのだろうか?その疑問に、私は立っていきたい。

あまり氷に降りる機会はなくなると思うが、できる限り最後まで、このスポーツを見つめていけたらと願っている。

2008年3月11日 (火)

大会を棄権します

今月、大会出場の機会をいただいていたことは、以前のエントリーでも記しました。

幸い、脚の痛みもなくなり、コンディションも整いつつあったのですが、出場を断念します。仕事の関係で、どうしてもその週末に時間がとれなくなりました。

現在の仕事の性質上、このような急な週末出勤は今後もありえますので、今後は大会へのエントリーはしない方向で考えております。とても残念ですが、仕事で飯を食っているので仕方ありません。

応援して下さった皆様に、お詫びします。申し訳ありません。

2008年3月 9日 (日)

<ATC2K>富士急ハイランドに行きました2

アクションカムATC2Kのモニター企画のため、2月16日に富士急ハイランドに単独で行きました。その時に撮影したスピンの動画は既にエントリーしましたが、バッククロスとトゥループ(シングル)がまだエントリーしていなかったので、ご紹介します。

まずは、バッククロスです。ドドンパ横のリンクを反時計回りに滑りました。最初はフォア滑走でのんびり滑っていますが、後半がバッククロスです。

銀色屋根で頂上がギザギザの丸い建物が”ガンダムクライシス”(中に実物大のガンダムが設置されているそうです)、観覧車の左となりにかまぼこ状に二つ並んでいる赤いレールが”ええじゃないか”のようです。リンクすぐそばを走っているコースターはドドンパの帰りみちで、放心状態というか、乗っている人たちはすごいハイテンションでした。少し向こうにそびえ立つ白いレールは、いうまでもなく、”KING OF COASTERS FUJIYAMA”です。

撮影しながらクロスをしている最中も、「パノラマ写真のように360度が見渡せる動画が撮れるといいな」と思っていました。アトラクションは結構映っていると思うのですが、ドドンパの最終カーブと富士山が重なってしまい、光の加減かうまく映らなかったのがちょっと残念です。

もうひとつ、シングルトゥループの動画を紹介します。

単独撮影での失敗で、空ばかり映っており、何がどうなっているのか、いまひとつわかりにくいと思います(すみません)。解析(?)したところ、次のような動きでした。

Photo

時計回り(通常のリンクでの周回とは反対方向)にフォアで滑走して、フジヤマを見ながらクロスで方向転換をします。この時に若干上体を起こすので、ビデオが太陽を映すポイントがあるようです。方向転換後は富士山に向かってまっすぐに滑走し、ビデオが富士山を映す頃にモホークターンをするので、画面が回り始めます。モホークターンは、フォアからバックへと半回転するターンなので、いままで背にしていた”観覧車”や”ええじゃないか”が映ります。間髪入れずに私の左手も画面に入りますが、この直後に左足はトゥを突いて跳びます。一回転なので、”ええじゃないか”がもう一度見えたところで降りるのですが、右バックアウトで着氷後の滑走をするので、画面はそのまま回り続け、富士山がまた見えたところで一連のジャンプ動作は終わります。

この後もフォア滑走へと踏み出すために体が動きますので、画面は回りますが、これはジャンプによる回転ではなく、フジヤマへ向かっての滑走とご理解下さい。あと、動画の終わりに空ばかりが映りますが、もちろん転倒のためです。その後で氷ばかりが映る時に、「よっこいしょ」と起き上がりました。

動画を見返して思うのは、少なくともシングルジャンプのレベルでは、空中での回転よりも、氷上での方向転換やターンでの回転の方が多いし動きも激しいようです。ですので、これらを安定して行えることが、見栄えのする、あるいは観ている人に安心してもらえる演技につながるのかもしれません。

実は、この撮影から1週間後の2月23日に、リンクでの練習仲間と一緒に再び撮影に行きました。単独の時よりもうまく撮れたと思います。現在編集中ですので、もう少し後にご紹介できたらと思います。この時には、夏にはボートも漕げる池をリンクにした、”クリスタルラグーンリンク”でも撮影しました。

2008年3月 8日 (土)

アフリカンシンフォニー

アクセルの練習を続け、両足着氷で1回転半までできるようになった。でも、練習の悪影響だと思うが、両脚の付け根の前側にひどい痛みを覚えるようになった。クラブの先輩からも、アクセルの練習をすればこの部分を傷めるかもしれないと言われていた。なので、予測はしていたが、特に右脚はまともに滑走できない程に痛んでしまった。

怪我を予測してトレーニングしてきたが、自分の甘さと体重の重さを残念に思う。

幸い、3日練習を休んで痛みはなくなった。でも、試合も近いのでアクセルの練習はできない。気持ちを切り替え、プログラムの中で思いっきりスリージャンプを跳べるように頑張りたい。

今までも、こうしたピンチや悩みを抱えながらやってきた。その時に支えにしてきた曲が幾つかある。例えば、コーディル作曲の「バンドのための民話」、この曲でいつかプログラムを作っていただけたらと夢見ている。大好きな曲だ。あるいは、ホルストの「第一組曲」。特に一曲目の主題が様々に繰り返される様は、バッハの”パッサカリア”に通じるものがあると思う。バッハの”パッサカリア”(オーケストラ用に編曲されたバージョン)でローラン・プティは、愛人に翻弄されて未明に死す若者の様を振付けた(「若者と死」)。これに対し、ホルストの第一組曲は暁に向かって生を決意する人の強さを表現しているように感じる。だから、辛い時には繰り返し聴いている。

そして、ヴァン・マッコイが作曲し、岩井直薄が編曲したアフリカンシンフォニー。高校野球の応援でもメジャーな曲だが、編曲者自身が指揮した東京佼成ウィンド・オーケストラの演奏がやはり印象的だ。私はニュー・サウンズ・イン・ブラスの25周年記念盤を持っているが、14本のホルンの咆哮や木管群の繊細だが芯の通った演奏を聴いていると元気を取り戻す。サバンナを駆けるように氷上を滑りたいと思わずにおれない。私自身も小・中学、高校とトロンボーンを吹いていたので、迫力のあるグリッサンドを聴く度に「これに合わせてスィングロールしたい」と感じてしまう。

でも、この演奏の一番凄いのは、やはりリズム群の迫力だと思う。唯一ティンパニーは花形のソロの役をとっているが、他のパーカッション群と低音楽器群は曲全体を通して、細かいリズムでサウンドを支え続けている。”ズンズズ ズンズズ.....”という一糸乱れぬリズムで支えているからこそ、爆発的なサウンドが心に滲みてくるのだと思う。佐渡裕指揮のシエナ・ウィンドオーケストラのDVDでの演奏も大好きだが、このリズム群の静かな迫力は、やはりニュー・サウンズ・イン・ブラスのCDの方が優ると、私は思う。東京佼成ウィンド・オーケストラは、30年も前から吹奏楽をやっていた世代には憧れであり続けている。

あの頃、全国大会を目指して皆で頑張っていた。あと少し...で、その夢はかなわなかったが、その経験が今にも生きていると思う。管楽器の良さは、全身を使わないと良い音が出てくれないことかもしれない。それは、弦楽器や鍵盤楽器でも同じなのかもしれないが、慣れないとめまいを覚えながらも横隔膜から息を噴出す、そして、体に残っている最後の一息まで搾り出すように吹き続けて、息継ぎをする、この感覚を思春期に覚えられたのは良かったのではないかと思う。そして、音をよく聴くこと、勝手に演奏するのではなく、全体のアンサンブルを第一とすることを身上とすることができた。

フィギュアスケートは個人競技だが、音楽との調和が大切とされる。だから、音楽を良く聴き、体全体を使って演技していきたい。特に私は、楽器の街で生を受け、今も生きている。だから、音楽を愛し続けて演技を続けたい。

今回の大会にアクセルを入れられないのは残念だが、近いうちに必ず跳び・降りられると信じている。だから、最後まで頑張ろうと思う。

2008年3月 1日 (土)

<ATC2K>フィギュアと関係ないですが...

このブログ初の、フィギュアと関係ないエントリーです。

Dog_2

犬です。うちのコーギーです。名前はクラシコ。メス犬にクララとかメアリーとかつけるのが恥ずかしかったので、色々考え、”コ”がつけば良いかと思って決めました。別に、”クラシック+子”というわけではないです。 あと、イタリアのワインとも関係ありません。家に来た時に、”エル クラシコ(スペインサッカーのレアル対バルサの試合)”をやっていたので、決めました。

ATC2Kのモニターが決まった時に、フィギュア以外でも色々試したいと考えました。ニフティの担当の方にうかがったらメイン(私の場合はフィギュア)以外のエントリー作成も良いとのことだったので、時々フィギュア以外の使い方もエントリーにしてみます。

で、犬ですが...目標は、「お散歩の様子を撮る」です。ただ、どうカメラを取り付けるか、それは問題です。最初は、ちょんまげ(あるいはセブンのアイスラッガー)のように頭に付けようかとも考えました。でも、安定が良くないです。水遊び用の救命胴衣を着せてそこに取り付けることも考えましたが、ただでさえ短足犬なので、胴の位置では目線が低すぎるかとも思います。

そして考えたのが...

Atc2k

クラシコが子供の頃から愛用している木の棒に取り付けてみました。付属のアタッチメントが優れものなので、写真のように棒にぶら下げる付け方でも、自転車のハンドルの上につける付け方でも、どちらでも上下正しく撮影は可能です。

ただ、得体の知れないものをくわえるのを嫌がる犬なので、まずはこの装置に慣れてもらわないといけません。あと、片側だけビデオの重量がかかるのも犬には負担なようです。バランスがとれる何かを反対の端につけないと、安定してくわえることはできないようです。なのでまだ練習段階ですが、 その様子をXactiという自分のビデオで撮影してみました。

そろそろ犬を洗ってやらないといけないのと、自分もオヤジくさくなったなというのが、ビデオを見返しての感想です。 そして、ATC2Kで撮影したのが次のものです。

想像通り、犬がくわえたところから大変なことになっていますが、最後にちゃっかり顔が映っているところが、クラシコさんらしいです。

(追記)

エントリーに埋め込んだATC2Kでの動画を見返して気づきました。「伏せ」から「座れ」と命令したにもかかわらず、きちんと座っていなかったクラシコさんが、私が近づいてくるので、あわてて座りなおす=お尻をペタンと地面に着ける のを、カメラは見逃しませんでした。ATC2K、あなどりがたし...。

« 2008年2月 | トップページ | 2008年4月 »

バナー

フォト
無料ブログはココログ